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カテゴリ:本のこと
少し前に読んだ本のことで、ちょっとおもしろいなあと感じたことがありました。
それは平野啓一郎さんが書かれた、『私とは何か「個人」から「分人」へ』という本です。 平野さんの書かれたものは、私は初めて読ませていただいたのですが、非常におもしろい 斬新な考えをされる方だなあと思いました。私の頭が少しかたいせいか、なかなかお考え についていけないところもあったのですが、一応最後まで読めました(笑) この方のお考えによるともともと「本当の自分」などというものは存在しないのではないか と言われるのです。そこには実体が無いと・・・以下本からの書き抜きです。 人間にはいくつもの顔がある。-私たちは、このことをまず肯定しよう。相手次第で 自然と様々な自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。どこに行っても オレはオレでは、面倒臭がられるだけで、コミュニケーションは成立しない。 だからこそ人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人」ではなく「(分割可能な) 分人」である。 -中略ー 分人はすべて「本当の自分」である。 私たちは、しかし、そう考えることが出来ず、唯一無二の「本当の自分」という幻想に 捕われていて、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた。どこにも実体がない にも拘らず、それを知り、それを探さなければならないと、四六時中そそのかされて いる。それが「私」とは何か、というアイデンティティの問題である。 そしてこのことを裏付けるために、ご自分の家での顔、仕事場での顔、ある会合での顔、 そして学生時代の学校での顔、等色々な例をあげられていました。 また以前の日記にも書きましたが、ネットでのその人の顔とリアルでの顔とが違うという 事にも触れ、結局どちらも「本当」ではないのか?どちらが「本当」の姿かと決めること 自体、不毛に思えるとも書かれています。 私には目からうろこがポロリと落ちるいうか、すごく新鮮な感じがしましたね。 対人関係ごとに色々な「分人」が存在するならば、「個人」の中の「本当の自分」なんて もともと特定する必要も、ないのかもしれないし・・・ そして本の中では、自己を肯定することにも触れられていました。 人はなかなか自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人) は好きだとは意外と言えるのではないだろうか?逆に、別の誰それといる時の自分は 嫌だとも。そうして、もし好きな分人が1つでも2つでもあれば、そこを足場に生きて いけばいい。 -中略ー そして好きな分人が1つずつ増えていくなら、私たちはその 分、自分に肯定的になれる。否定したい自己があったとしても、自分の全体を自殺という かたちで消滅させることを、考えずに済むはずだ。 自分が読んだ後に息子に「これ面白かったから読んでみたら?」と薦めてみたのですが、 「いいわ」と読みませんでした。 でもこういう柔軟な考え方をすれば、生きるのが少し楽になる方もいらっしゃるのではない かしら?と思ったのでした 講談社 現代新書 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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