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カテゴリ:感じたこと・知ったこと
と考えながら、またまたタブレットから書いています。
今、夜の11時くらい(24日の)なので、多分最後までは書けないでしょうね~ 前回の日記のように2日がかりで書くことになりそうですね。 最近ネットから遠ざかっているわけでもないけれど、パソコンに向かう時間は グッと減りました。それに比例するように子供を見る時間も減りましたね~ 自分のことばかりしています(笑) この前に「やるせない思い」という題名の日記を書いたときに、読んだ本のことを 書いたのですけど『涙の理由』という重松清さんと茂木健一郎さんとの対談集。 もう1ヶ所自分がそうそうと感じた箇所がありました。 そのことについて少し書いておきたくなりました。 私がそう感じたのは重松氏の「同感ではなくて共感してほしい」という言葉です。 「同感」はある意味よそ事なんです。自分は安全なところから同意するというか、 同情するというか。共感は「問いが共有できること」と氏は書かれていました。 私たちはともすれば、共感(共に感じる)ではなく同感ですましていることが多い。 「同感は答えに関する同感」であって、「共感は出発点が同じだね」ということ。 もちろんすべてのことに共感することは出来ないです。 皆考え方はそれぞれ違いますしね。でも最初に答えありきではなく、なぜこの人はこう 思うのかしら?と考えを馳せることが大事なのかな~そうせざるを得ない理由というかね。 同感することはある意味簡単だけど、共感することは難しいですよね。それはひとくくりに しないということにも、通じると思います。人って1人1人違いますものね。 子どもに対してもそうですよね。子どもがそうするにはそれなりの理由があるということを 親がまずわかろうという姿勢が必要なんでしょうね。 立場を理解しようとしてくれた時、気持ちを理解しようとしてくれた時、人は初めて自分を 尊重されていると感じることができるのでしょうね。 そして「尊重」されなければ、真の信頼関係は生まれないのかしらね・・・ なんて、えらそうなことばかり書きましたが、自分がそのように出来ているかと 言うと、そうとばかりは言えないのが現状です。子どものことだけじゃなくって 自分の身近な家族に対してすら、なかなかそう出来ないですね。 つい自分が正しいように感じてしまい(答えありきで)共感出来ないことも多いです。 この前に、今勉強していることの2回目の勉強会がありました。 そこで自分や他の方々が話されたことについては、外へ出すことは出来ませんので、 わかりにくいとは思うのですが、講師の方の言われたことでひとつ私の琴線に触れた 言葉があって、それに対して自分でも思わず「同情はされたくないです」と答えていました。 その方に非難されたとかではないですよ~むしろ共感してもらえたと感じました。 人間としての「誇り」を奪われることが人は1番辛いことで、それは大人も子どもも かわりはないのかしらと思ったのです。「あの人はかわいそう」と思われるのは嫌だ なあ~上から見られたくないなあって思いますね。私はね。 上手に甘えるとか、吐き出すとかとはまた違うのですよね。強がっていることとも違う のです。うまく言えないですけど、それが自分なんだなあって今感じています で、結構面倒くさい性格だなあとも思ってるかしらね・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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