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カテゴリ:感じたこと・知ったこと
息苦しくなってきました・・・いじめによると思われる自殺、受験、そして成人式。思わず
テレビ切っちゃったわ~私もまだまだだなあ~世間の色んな出来事をなかなか冷静に見ら れないのですよね~境界線が引けてないのかな?気持ちが重苦しくなってくるのです。 でもそれが今の自分なのでしょうがないです。過去の自分も今の自分も大事に抱きしめて 生きていくことしか出来ないのですよね。今はね。本当この時期は苦手だな。 息子も娘も一時よりは元気になってきています。まだ2人とも傷は抱えていますが、自分の 道を歩いていこうとしている。私はそれを邪魔しないように出来るだけ平気な顔をして 毎日を過ごしていってます。今日も夫と出掛けていました。近所の氏神さんへ初詣に。 午前中は実家の親の老人ホームに頼まれたものを届けに。母の一言や父の言動に違和感は 感じて、そしてちょっと自分の気持ちも言ったりしたわ~気まずい空気が流れた。でも 自分を責めるまではいかなかったかな・・・人間だものね~そう言う気分の時もある。 今読み返している『子どもを信じること』のなかにこんなことが書かれていて、なるほどと 思ったので忘れないように書いておきますね。これが絶対と言うのではなく私たちはとも すればこのような考え方に陥りやすいのではないかな?と自戒を込めててそう感じたので。 目に見えるものばかりを求めない このように指示や命令、確認の言葉ばかりを使ってしまうのは、目に見えるもの、 すなわち、外面的なもの、物質的なものに、比重を置きすぎているからだと私は 思います。 そもそも、外面的、物質的な達成は、子どもが幸福になるための手段にすぎない はずです。ところが、親はしばしば、そのような達成を絶対の目標と思い込んで いる(あるいは信じ込もうとしている)ようです。そうではなく、子ども自身が 自分は幸せだと感じられることや内面の幸福のような目に見えないものを得られる ことだって、大きな意味があるのではないでしょうか。そのような目に見えない ものの価値を認めることができると、親も育児を楽しみ、子どもに優しく接する ことができるように思います。 ところが、現実には、目に見えないものの価値を認めることは難しいことです。 しかし、それを認めることができないと、子どもにやさしく接することもでき ないのです。 子どもが小さい頃からの自分の子育てを振り反ってみると、ここに書かれていている ようなこと、何時も何時もでは無かったけれど、無きにしもあらずですね。そしてきっと 私も夫もそう言う風に育てられきたのではないかしら?そうしないと自立できないように 刷り込まれているようにも感じますね。その考え方を全面的に否定することは出来ません。 でも田中氏の書かれているような育児を楽しむことが出来にくかったかなと感じています。 もっと肩の力抜いて楽しめば良かったのですよね~子育てをね。 今からでも楽しめるかしらね~ってもう子離れの時期なのにそんなことを思ってしまう。 今日は誉め日記書けないかしらね~でもこんなネガティブな自分も優しく自己受容です。 自分にも子どもたちにも、んだんだ~みんな幸せに生きたいと思ってる。ただその求める 幸せの形が人によって違うだけなんですよねきっと。今日はまたまた書きたい気分でした。 まだ秋桜咲いてます。お部屋に活けた正月のお花。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016.01.10 22:49:48
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