文化の日の昨日は
特に文化に触れるようなこともなく、そもそも広い範囲の文化なら日々の生活を丁寧におくることも、文化と言えなくもないですが。お家でずっと過ごしていました。本読んだり借りてきたDVD観たりして。たまたまどこかで題名みて借りた映画なのですが、妙に心に残る映画でした。1997年のアメリカの映画です。題名は『インツゥ・ザ・ワイルド』実話をもとに映画化されたようで原作は『荒野へ』と言う題名らしいです。大学を優秀な成績で卒業し経済的にも恵まれていた1人の青年が、卒業後誰にも言わずに消息をたって、アラスカの大地に行くという話です。お金も家族もすべて捨てて。日本とはまた違うかもですが、親の期待をずっと感じていい子を演じ続けた末の行動と言うのがよくわかりました。そして家庭が機能してなかった。この年頃の潔癖な理想を追い求める姿、そして両親への強い反発心や裏にある孤独がよく描かれていて、共感出来る部分も多かったです。ヒッチハイクしながら色んなアルバイトしながら、そして色んな人に出会いながら。でも心の底では親に対して無条件の愛を求めていたんじゃないかな。青年が呟いた言葉「幸福が現実になるのは誰かとわかちあえたとき」が印象に残りました。きっと身近な家族と一番共感し合いたかったのでしょうね。 ハロウィンに作ったパンプキンプリンです結末は詳しくは書きませんが、結局両親とわかり合えないまま終わります。きっと無念が残っただろうなあと感じました。親も子も。親が子どもに出来る最大のものがあるとするならば、衣食住を満たすこともそうだろうけど、自分を愛してくれる人が居ると子どもが感じられる接し方をすることなのかな?どんなに不器用でも、時間がかかっても、それぞれの方法で。心の中に確かに愛はあっても、それが子どもに伝わらなくては、無条件の受容をしてるとは言えないのかなと思いました。そして無条件の受容を考えるとき、私の頭にいつも浮かぶのは「自己受容」と言う言葉なのです。自己受容と言うことについて考え始めたのは、息子が不登校になってからのことでした。息子が不登校になって色んな本を読んだり、ネットで知識を得たりする過程で「自己肯定感」と同じ位よく目にしたのがこの言葉です。そうして今に至るまでかれこれ5年以上は「自己受容」しようと思ってきたわけなのですが、長年自分に身についた「癖」なのかこれがなかなかもってスンナリとはいかないのです。つい衝動的に「自責」してしまうのも自己受容からは多分真逆のことですものね・・・そこにどっぷりと浸ることはしなくなりましたが。昔よりは他者の目や評価を気にしなくなったとも思うのですが、全く気にしなくなったかと言うとそうではありません。皆さんそうなのかな。内心まではわからないけど、自然体で生きておられるような方を見ると、いつまでも肩に力の入ってる自分を「あーあ」と見てしまいます。自分を自分で評価してしまってるのかしらね人見知りしてしまう、新しい環境に馴染みにくい(とっても時間がかかる)性格も人目を気にしてる→自分の評価が恐い からなのかな。うん、こうして自分を自己分析してみると、まだまだ自己受容しているとは言い難いかなと感じます。ただ以前の自分とは少し変わってきたことがあります。それもここ数年の間に。それは自分を「良い人」「悪い人」のくくりでは見なくなったことかしら。いくら人に良い人と見られても、自分が自分に対して「良い人」じゃなければそれはきっと寂しい人生なんだろうな~と思えるようになった。「良い」「悪い」のジャッジをしなくなったのかな・・・自分に自信を持とうとか、自分をもっと好きになろうとか、前は思ってたけど今はそう思わなくなってきたのかな。よくわからないけど、私は私のままでもいいんだろうし、そんなに大きくは変われないしね。私そのままお人と繋がっていける関係を目指せばいいのかなとも思っています。人との繋がりってご縁のものでもありますしね映画の話から自己受容の話になってしまいましたが、自己受容って難しいです。でもこれが自然に出来れば自分の生き辛さも、少しましになるように思います。これが以前にはいとさんがコメントくれた「自分で自分を許す」ことなのかなと今感じています。おとねさんがコメントくれた、自分に厳しくしないも残ってます。そして自己受容することが、子どもを受容することに繋がることもわかりました。ここ数年は過去の自分を悔いる時間が、どうしても長くなってしまいました。でもそうやって立ち止まったことも、自分の人生には必要な時間だったのではと今感じています。自分はこういう人間なのよと開き直ると言うか限界を知ると言うか。子どもとの関係はやり直ししてる途中だと思うのですが、自己受容しつつ自分自身の楽しみも入れながら、ボツボツと進みたいなと思います。このブログの更新のように~(笑)