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カテゴリ:思想
なぜ、下部構造に規定された上部構造が、かくも分析が開始され、ここまで大がかりな理論として体系化しようと試行されたのか。
それは他でもない、世界の思想が資本主義社会に対して共産主義社会、あるいは社会主義社会といった思想で二分され、当のロシア革命がレーニンからスターリンの社会主義独裁政治へと変貌し、カール・マルクスの社会主義革命思想が後継者達によって大きく方向を間違えだしたのではないかという疑問から開始されている。 氏はロシヤ・マルクス主義がマルクスの思想を誤認解釈し、行き詰まった思想の打破を目指していた。その行き詰まった息苦しい思想の突破口として新たな国家解体の思想はないか、権力を無化する方法はないか、芸術すらも革命の道具と化している「政治と文学」の考え方を軌道修正する方法はないか、心理学や歴史学の解釈の誤謬をどう訂正しうるか。この広大な人類思想の多岐に渡るテーマを、歴史の先人達が時代で指し示して来たように、一人の日本人が未だかってない広大な高僧を胸に悲壮な戦いに一人挑んだと言える。 近代思想の体系化を果たしたヘーゲルの存在は氏にとって、大変示唆に富んでいた。また、マルクス、あるいはフロイトといった西洋思想界のトップ達を歴史からたどると共に、アジアという地域特殊性、また日本という島国の特殊な歴史性を踏まえての、単なる思想の移入ではない視点での孤独な思想総体の体系的構築化が開始された。 言うまでもなく、自身の戦中戦後の特別な体験や60年日米安保闘争の体験も大きな思想の核に影響している。書の中で言うロシアマルクス主義批判として氏が使った「マルクス者」との違いこそ、マルクスの言う「共産主義的人間」であり、氏が生涯を通じて自身の個人としての在り方を、振る舞い方を貫いた理想像をまさに地で生き抜いたことになる。普遍的な人類の課題を、社会総体として自身に課し、社会の総体によって決定される自己意識の限界に挑んだことになる。われわれは得てして、その課題の大きさに驚き、佇み、日常の営為の中に埋もれていくのが通常である。非凡とはその広大な個人幻想に圧殺されない意志と知力で生涯を掛けて凌駕できるかであり、絶えず遅う全日常の逼迫や恐怖や圧力や慰安を押し戻す、最後の意志にかかわっている。 氏が言う知の思い上がりは権力や権威に接続し、大衆を愚弄するか支配する駄インテリになるのが末路であるから、さらに「大衆の原像」を思想の核に据え、親鸞思想の非僧非俗から得た「非知」へと自身を向けている。知識人が思想として幻想を生み、それを新たな思想として世界に提出し、それがより良い方向へと或いは人類がより良い方向へと行けるように活動する。ただ、その思想ももしかして誤謬を含むか、誤謬の流れに傾斜してしまうかもしれない。全ての思想はその怖さを持っていると分かっているからこそ、絶えず自己否定の刃を突きつける「非知」を戒めにしていると言える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年05月14日 00時27分50秒
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