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カテゴリ:思想
自らの生命とその死を思考の対象とし得るのは、地上では人間だけである。死を考えるには、勿論同時に生を考えの対象にしなければならない。
個人と集団のテーマが同時の現れるのを、我々は即座に理解する。 というのは、死が個の死、一固体の生命の生誕と死亡という個の絶対性に基づいている。あなたの生命が、掛け替えのない、また代わりようのない、あなただけの生命であり、個の生涯であるように、その死も、あなた固有の死であり、あなた個人の絶対的な死としての、生命の終焉に他ならないからだ。 しかし、ここで考えなければならないのは、あなたは自分自らを、自分自身で生み出したのではなく;そんなことが、できれば素晴らしいことだが、あなたを生んだ両親が居ると言うことだ。親が居ないと私たちは存在しえないと言うことが、もう一つの、私たちの生と死を、永遠に捉えて離さない範疇といえる。 つまり、人類の生命史の一過程を担うような存在として、生命史の連続性を、大河の潮流のように捉え、その長い生命の全体の中での、継承であり媒体であるという人類としての集合の生全体を考えることが必要になる。 それは、日常生活一つを取り上げても、全てが祖先達、祖父母や父母や、関わってきた人達が作り上げてきた、生活用具や生産物質、衣料品から医薬品や食料から住居、資源、知識・・ともかく全てが学び、学習することで受け継がれてきている人類史のなかで、それを担う個人であると言うことになる。 こうなると、固体の死は、この個人の絶対の死ではあるが、生命体の身体の死はあっても、集団としての類の死はそれで終了してしまうわけではない。これが、個は個の死ではあると同時に、人類の歴史を受け継ぐ者達のバトンタッチの流れの中に有ると言うことが言える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年05月14日 00時39分36秒
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