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慶州は朝鮮半島の南東部の都市で、かつては1000年に渡り王朝文化が花咲いた都です。新羅王朝の全盛期の8~9世紀には、なんと100万人以上の人々が、ここに住んでいたと言われています。街全体が巨大な博物館のようで、「慶州歴史遺跡地区」として世界遺産に登録されている。
まず、古墳公園で広大な敷地に23基の古墳公園には純度89%の金の冠など様々なアクセサリーが一万点以上発掘され、武具、馬具も出土。天馬塚は白樺の皮に美しい天馬の図が発見され、その名がついている。チョ星台は東洋最古の天文台で366個の円筒状の石の塔で窓からはし混む光の角度で気象・天体観測をし、農作物の収穫予測などや占星術を行ったと考えられ、当時の司令塔の役割を果たしている。石氷庫は新羅時代に花崗岩で作った世界最古の冷蔵庫もある。 新羅の時代(紀元前一世紀ころ)中国などの近隣諸国との競争を通して階級社会である古代中央集権国家を形成、王位継承権も確立した。こうした背景から古墳が作られ、この頃に百済との競争を通して仏教の受け入れや、大学の設立なども行われている。 北の高句麗は長寿王(在位413~491)のとき、百済、新羅を圧迫。都を平常に遷都し、百済を制圧。このころの史実が古墳の壁画などから伺える。 中国の唐は新羅と連合し、高句麗は新羅に屈服することになり、平壌は陥落するに至った。このころは戦乱の時代と言える。仏教の伝来は高句麗、百済、新羅の順で、この頃に寺や仏像が作られている。高句麗、百済、新羅の時代は4~5世紀ころで、南部諸国の加那はこれに併存しながら6世紀に新羅に滅ぼされるまで統一国家にはならなかった。日本書紀で「任那」はこの加那を指している。 7世紀頃の新羅と唐との戦乱が続き676年に終結。統一新羅後は慶州での人口は増え続け17万8903戸の戸数を数え、貴族たちは豪華な屋敷に住み、民の苦しみは大変なものだったようだ。このころ、仏国寺も建立。 その後の後三国時代まで 不安は続いた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年05月15日 23時11分39秒
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