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作家の部屋 「ダルタニウスの苦悩」

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スザンヌの「ぶろぐ… スザンヌ☆さん

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どぴゅ@ みんなホントにオナ鑑だけなの? 相互オナって約束だったけど、いざとなる…
2006年05月21日
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カテゴリ:思想
<対幻想論>
 吉本氏にとっての<対幻想>概念の中心には<家>もしくは<家族>がある。エンゲルスの原始集団婚による「嫉妬からの解放」理論を否定し、フロイトの「原始群族の父祖」に着目、このタブーと理想の対象に取って代わる「トーテム」などを象徴として、息子たちが自ら父祖に代わり女性支配を破壊し、母性神格化を是認したという「エディプスコンプレックス」を導入しているフロイト理論から入っている。
 問題は<家族>という集団と性を基本とした一対の男女の関係を、どう使い分けるかにある。
 ここで著者は「<対なる幻想>を<共同なる幻想>に同致しうる人物を血縁から疎外したとき<家族>は発生した。」と家族の起源を決定する。つまり、家族全体に対して権力を振るう者が現れたときに、その権力者が父母のいずれであっても、その中の男女のペアとは異なった振る舞いをし始めたときから、逆に男女のペアが意識されて家族集団を意識しえたということを意味している。
次に著者はへーゲ!ルの精神現象学の<家族>の本質についての論考に着目する。
つまり、<夫婦>とは、<親子>や<兄弟姉妹>とは、<家族>とはなんであるのかを問うために。
 その中で目を引くのは「混じりけのない関係は兄と妹の間にある。両者は同じ血縁であるが、この血縁は両者において安定し、均衡をえている。両者は情欲を持ち合うこともないし、・・互いに自由な個人である。」実はこの分析が吉本氏の国家の起源論の原点になるのである。
 私たちは共同性と個人性の中に新しい性としての幻想が生み出されていくドラマを見ているようである。異性の意識をともなってしか存在しない幻想領域の根幹には、言うまでもなく一対の<夫婦>である。ヘーゲルの夫婦の意識は「自己環帰」しえないとは、言うまでもなく夫婦間の意識の相互関係性をさしているのであり、子供の親に対する関係、また<家族の共同性>の中での子供同士もその相互性を持っている。但し、親子は親が亡くなると解体し、兄弟姉妹は親の死で解体するが仮構の異性という親族関係の幻想から、永続する<対>幻想にあると言える。これでも分かるとおり、著者はヘーゲルから大きな影響を受けていることが分かる。さらに上げれば、ヘーゲル、マルクス、フロイトが論を進めていく上での核になり、彼らの延長上で思想を構築しようと言う意図であり、世界思想に向かうための広大な彼の高層と意気込みを、私たちは受け取るべきである。
 古事記の国生みは農耕社会の始めに農耕部族の清酒権力によって創作されたもので、共同幻想と対幻想の同致が描かれている。
ここで、「人間という概念では、個々の個人を差別は出来ず、性としての人間という元年では男女の性的分業以外には差異はない。」というところで、私たちは再び大きなテーマをさらりとやってのけられている。人間という抽象概念で捉えると言うことは、生物としての生命体として、人類という人間の総体で捉えていることにより、ここの人間を具体的にどうということに捉える括り方ではないので、個人の差異はここには現れないことを意味し、男女という性の区分で考えるとすれば、妊娠と出産の生理的分業の他にはとゃ会経済的な差異性を、根拠として導入することは出来ないことを示唆している。
こここそが、ライツェンシュタインの思いこみの想定を批判する最大の根拠にしているということになる。そしてさらに「共同性としての人間、いいかえれば集団性をいとなみ、社会組織をつくって存在している人間という概念の中では、人間は常に架空の存在、いいかえれば共同幻想としての人間であり、どんな社会的な現実とも直接結びつかない幻想性としての人間でしかありえない。」ということは、実体のない観念的な、抽象化された共同性の一員という捉え方の中に 共同体の構成員の意味があり、そう抽象化されている括られ方の中では、私たち個々の人間の実体は存在していない。つまり「架空」の「幻想性」としての抽象概念ということになる。だからこと、私たち個々の実体や「個人幻想」とは逆立すると言う根拠がここにある。 
 さらに興味を惹かれるのは「男女神が想定されるようになったとき、<性>的な幻想の中にはじめて<時間>性が導入され、、<対>幻想もまた時間の流れの中によって生成するものであることが意識され始めたことを意味している。」というこの箇所だ。私たちは古代に立ち返り薄命の意識がやがて目覚めへと至る過程を体験するような目眩すら感じる。日々の食料の糧を、あるがままの自然から収穫していた時間意識の中から、やがて作物を栽培し育て、収穫したり、鳥獣や魚を育てる段階に入ることの時間意識が、私たち祖先の意識を激変させていく結果となったことを言い当てている。人間の出産、育児や老死の時間と初めて向き合うことができ、自然の時間と女性の出産という特別な存在が穀母神と関連づけられて、部族の共同幻想と<対>幻想がここで同化されることを指摘している。
  人類はやがて、この穀物などの収穫のサイクルと、母胎の妊娠から出産育児、成長のサイクルとは違うことに気づき、やがて部族の<共同幻想>と男女の<対幻想>の違いを意識していくことになる。やがて農耕祭儀はその<共同幻想>と<対幻想>の不一致を疎外し心的に解消するために生まれ、やがいその祭儀自体も<対幻想>とは完全に分離し、やがて世代というさらに長い時間性を手に入れ、収穫を安定させるために河沿いの平地や山間の盆地に人類は定住していくことになった。

はす





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Last updated  2006年05月21日 06時58分53秒
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