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作家の部屋 「ダルタニウスの苦悩」

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スザンヌの「ぶろぐ… スザンヌ☆さん

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どぴゅ@ みんなホントにオナ鑑だけなの? 相互オナって約束だったけど、いざとなる…
2007年06月22日
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カテゴリ:情況論
 ■現代のアポリア■ 

それにしても、家族や近親同士がなぜ殺意を心にため込み、憎悪としてダムが決壊するように、一気に爆発させて相手を殺し、しかも何度も殴ったり、刺したり。挙げ句の果てには死体処理として「バラバラ」にして捨てるという共通の凶行に至ったのだろうか。
ここまで犯罪が多発し、しかも誰もが凶行はあり得る、という意識下の共通項がなぜ、こうも生まれるのだろうか? 相手を思いやる感情とは、まるでほど遠い。それに愛を失った「家」の壊れた家族意識や、個人がバラバラの「家」という建物だけの家族。
 そこには、近親という家族意識は皆無で、個人がたまたま同居している様子が浮かんでくる。コミニケーションがまともに成り立たっていない家族関係や親を殺したり子供を殺害する親の、なんと多いことか。その現象がますます加速してきている。「家」のイメージを失った若者夫婦が子供を作り、乳幼児期に忙しさを理由にあっさりと託児所に乳児を預けてパートに出たり、二人の生活を楽しむとしたら、子供の方は愛が不足したことで、「家」をすでに持たない愛の失われた不毛な子供世代が量産されていることになる。しかも、都市化され、人間の許容量以上の大量の情報が圧力となって人に襲いかかっている。
人間の体内リズムよりは、はるかに速いスピードの時間周期があれこれと
 私たちの日常には狂気が常に潜み、ときたま顔を覗かせる。あるとき、突然その妄想が抑えきれない衝動に変わるのを幾たびも体験しているはずだ。連続している家庭内の凶行には、ただ驚かされるばかりだが、人が凶行に及ぶには追い詰められた動機がある。まるでダムが決壊したように一気に怒りとなって噴出するだけの強烈な、本人には抑止しきれない激情が心身を襲う。ストレス社会には、人間にとって限界とも言えるほどの都市生活の目まぐるしい日常がある。しかも、絶えず不安を抱え、安定生活はいつ崩れるかもしれない危機感を抱かせる。こうした同時代に内在している共通の情況があげられる。
 百の殺人に百の動機があるが、ある医師宅の兄による妹のバラバラ殺人事件も、「自分の存在」を屈辱的に妹からなじられ否定されることが鬱積していた。通常かかるはずのブレーキが、なぜ効かなくなったのか。ここでは殺された側の妹の言動に、明らかに事件の発端となる原因がある。日常的に反芻される執拗な「なじり」(=いじめ、いびりなど)は侮辱や軽蔑、過度の無視といったネグレクト行為など精神的ダメージで追い詰められたことで、怒りが膨れあがり、それが一気に爆発している。相手の心への配慮や、思いやり、察してあげる気持ちが養われていれば、ここまで追い詰めてしまうことは抑えられている。
 その問題は、自身が社会と関わるべきところで、追い詰められてしまった屈辱感も混在しているにちがいない。誰しも自分の存在を完全否定されれば、屈辱感と憎悪が現れ、心の根が変おれてしまうかもしれない。たたかれて性根が強くなっているか、そのような全否定が初体験で、当惑し興奮して復讐に走るか。その個人差も犯罪に走る切っ掛けになる。 兄弟姉妹が兄弟喧嘩を幼い頃から日々繰り返し成長していたとする。子供同士の喧嘩は口論の内容が本人達にとっては強大な違和だったとしても、殺し合いには至らない。やがて、妥協して親和し、時間と共にやり過ごせるようになる。怒りの剣先を収めることで日常世界に戻れることを学んでいく。それが、日々家族や社会の人間関係で学習する対処法だ。幼少期に遊びと喧嘩で泣いたり笑ったりして屈辱感や、同情や思いやりをを学ぶ。親や年上といった第三者の介入や仲間の言葉からも考える。
 核家族化の進行やマンション群の林立、そしてPCやオンラインテレビゲーム、DVDやMDなど個人の世界で楽しむ建物内での遊びの普及、両親の共働きなどは学びの場、コミュニケーションの機会を狭くしていく結果となった。食生活や視覚から受ける一方的な偏った情報内容、対話を欠いた空間が現実感覚をより気迫にする原因に拍車をかけて来たことを執拗なポイントにしなくてはならない。
 学校は高進学をことさら目指し、考える力や想像力、道徳や思想学習などよりは受験優先の難問解法テクニックのマスターの全力を尽くし、その成績評価が学校という教育現場の露骨な人物評価、人格評価にまですり替わる。親たちもより高い学歴さえ我が子が手にすれば個人としてゆとりの生活が手にはいるだろうという期待でしゃにむに子供の教育という戦いにお金をつぎ込む。親はそのために働き、親の勤めを果たそうと躍起になっている。この先鋭な欲求はともすると、そのレールを踏み違える。途中の脱線や停止は許されない。エスカレートした狭い見識を笑われようと、皆がやっているし考えていることであり、学校現場自体が まさにそこに向かっているのだからもはや疑う余地もない。かくして、受験勉強のプロとなった教師と師弟である学生達の未来は、国家公務員官僚や大手企業、社会的に身分や収入の高い職業へと意識をし向けていく。その結果は、日本の現在の社会であり、収入や身分で格差や階層に差がつき始めている社会問題でもある。
 こうして、社会に溢れる偏在している問題のしわ寄せは、子供達や親たちの心を揺さぶっている。進学や就職の厳しい現実に直面し、あるいは労働の実社会での言い得ない仕事や他者との葛藤に、心は病んでも不思議はなく、その病巣を密かに温存している現代人が自分自身であり、隣人である。
 ワインボトルで夫を殴り殺して、挙げ句の果てにマンションの自室内で夫の体ををバラバラに解体し、バッグに入れて駅や公園に捨てていく現代人エリート夫婦の実態がすべてを暗示している。社会が道を見失い、病んでいるのは文明の全世界的な課題だ。見聞きする無知とも言える情報に飛びつき、短絡的に振り回されている情況の利己的な選択の末路がこの結果に他ならない。





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Last updated  2007年06月22日 14時42分11秒
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