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カテゴリ:歴史
モンゴル
チンギスハン 一般に主君が亡くなったとしても、記念碑や墓を建てず埋葬場所も分からない状態で亡骸を故郷の大地に埋める。亡骸を安らかにしておくためだ。霊魂は広大な風光の自然の中で永遠に生き続けるという。特にチンギスハンの埋葬は埋葬に立ち会った兵士達は、40日の旅程で出会ったすべての人間や動物を殺し、埋葬後は800人の騎馬兵で馬で地ならしをして踏み固め、その兵士達は別の兵士達によって皆殺しにされ、その手を下した兵士達も、さらに別の兵士団によって皆殺しにされた。こうして、チンギスハンが故郷のどこに埋葬されたかは誰も分からなくなっている。 兵士達は埋葬場所周辺数万ヘクタールを、その後立ち入り禁止とし誰も踏み込むことはできないようなしたといわれている。この「大いなる禁断の地」は、その後800年にわたって封印し続けられた。その後ソビエト連邦も「立ち入り厳禁区域」としてその周辺100万ヘクタールを囲むように、さらに包囲して封印。 何語にも表記可能な汎用文字、自由貿易と単一の国際法、共通の通貨、文字が読めるための教育、千年暦と広範な地図、同時に陸路と海路で遠くはアフリカまでも交易の対象とした。さらに、羅針盤、印刷技術、火器、算盤を取り入れた。ヨーロッパも当時多大な影響を受けた。「フレー」はモンゴルから西欧に伝わり、日本にも伝わっている叫びであり、ズボンやジャケット、爪弾いていた楽器は弓で引く弦楽器のバイオリンやチェロなども奏法に影響を受けたと言われている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年06月24日 21時48分27秒
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