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カテゴリ:思想
存在とは、意識された存在に他ならない
ある爽やかな晴れた日に、仲間3人が森に囲まれた川原で自然を前に腰を下ろす。由紀は爽やかな暖かい風と自然全体のマイナスイオンを浴びて至福の時を感じ、ゆったりと癒されている。達也は、川原の鳥の足跡を見て、野鳥の種類を特定し、足跡の間隔と深さで上空の大型の鳥がその野鳥を発見し、慌てて飛び出そうとしていた様子を思い浮かべている。過酷な自然の掟を感じている。祐司は、緑の木々がほとんど気にならず、由紀の魅力を感じながらこれから始まる釣りとバーべーキューの段取りに頭を巡らせている。同じ自然環境に居ながら三者三様の感じ方や考えに奪われ、意図的な強要や共有が作用していないので、見えているものも異なっている。また感じていることも異なっている。それぞれの個人性がそうさせている。3人の出生や生育環境や個性などの差異が、本人の意識世界を形成し、見えたり感じたり考える基層の核となって個性を生み出す。 その差異をもっと鮮明にするには、この3人が全く異国の生育環境も異なる場合、もっとはっきりしてくる。たとえば一人はニューヨークの都会育ちで世界的企業のトップの経営を任されている。一人は、北朝鮮の教育を受けた兵士だとする。最後の一人が、アフリカで生まれ育った未開人だったとする。 3人が特定の場所にそろったときの見方や感じ方は、大きな違いがあると分かるはずだ。また、彼らが年齢層が異なったり、家族構成が違い、あるいは時代が違うとする。周囲の存在は、当の人間が意識し感じたものが、あるがままの存在になる。その相違は、個人の生育環境など、多くの要因に差異があるほど、存在自体の差異が鮮明になる。 一つの事件も、被害者と加害者では捉えられている内容に大きな隔たりがあるように。 これは、人によって存在はそれぞれ別の姿になる、ということを意味している。 ここで、「存在」をより分かりやすくするために「対象」言い換えてみる。 すなわち、その人間によって意識できた対象が、その存在ということになる。 対象は自由にその姿を変える。見えた当人は存在とはこういうものだと考え、感じて理解する。つまり、見る人間によって対象は異なるため、対象について語り合う者同士が異論を交わし合っても、平行線のまま相手を認めることはない。はじめから個々の人に見えている、そして理解できている当の対象が異なっているからだ。 これは、意識の二重性をも意味することになる。意識は対象からも作られるということだ。意識は認識できた対象と交信し、関わり、考え、認識し、感じて記憶し、そのことで自己意識を形成する。一番わかりやすいのは認識できた対象を、ある真っ白な画用紙に思ったように書き表せば一目瞭然になる。さらに、書くことで再び対象を再構成し、その上で自身が加工した対象と再び向かい合う。こうして、対象加工の二重化が行われる。 相手は自分の鏡だ。存在を人間と置き換えると、自分を知るのはなかなか困難なことだが、接する相手に印象を聞けば自分という一つの歪(いびつ)な像ができあがる。それが、相手に意識されている自分そのものということになる。 もちろん、この場合、ノンという逆主張が起きるかもしれない。相手は真実の自分を理解などできないといったように。もし、その穴を埋めようと思えば、相手にわかるように何らかの方法で伝達する以外に、相手にとっては意識された存在の固定化が、誤解のまま封印されてしまうことになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年11月07日 15時34分55秒
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