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作家の部屋 「ダルタニウスの苦悩」

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スザンヌの「ぶろぐ… スザンヌ☆さん

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どぴゅ@ みんなホントにオナ鑑だけなの? 相互オナって約束だったけど、いざとなる…
2008年02月18日
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カテゴリ:思想
吉本思想を理解するにあたって、三つのキーワードをあげた。
「幻想」、「大衆の現像」そして「非知」である。相手の書物を批評するとは、批評する側の知性がほとばしり出てくる。書評の難しさは、自分の言語領域で、向かいあった著者の書いた書物のレベルを理解し、思考した内容をたどり、知の社会的位置づけを自分の力量と構想力で作り直して見せなければならない。
 もちろん、彼の構想力はひときわ際だっている。その力が随所に新しい歴史的な思想を打ち立てている、考えることがこれほどおもしろいものなのかを身をもって提供してくれているとともに、本人は産みの苦しみを負いながらも、十分な手応えを感じ、不安と裏腹に充実感を感じているに違いない。あるいは、自分がとてつもない領域に足を踏み入れていると感じながら、ときには戦慄と恐怖を知力で押さえ込もうと、もがいているのかもしれない。
 歴史という時間をたどり、その思想が人々のこころを捉えていく内に、彼が意図した内容とは違う方向に動き出してしまう体験もしているはずだ。また、その誤解された思想の模写像に攻撃をかける敵手が大衆を扇動したり、ありもしない曲解が批判の材料にさらされることなど日常茶飯事に違いない。言葉の重みと軽さ、視点の違いと意図的妄想が無数に空を飛び交う。知性は溢れかえるが、ほとんどの考えが、人身を惑わすガラクタだとは誰も気づかない。その思想の怖さを知り尽くした吉本が「非知」を目指すことの意味をどれだけの人間が汲み取れることだろうか。
 今、自分の考えを信じて敵に論戦を挑んだとしても、勝敗の行方より、帰結する利益が誰のためのものか。あまりにも個人的なエゴのためではなく、あるいは現に国家の意図に乗じて戦争に荷担することに微塵の疑念も抱かない大衆でもない。それこそが吉本が手にした、共同体の幻想にも揺れることのない「大衆の現像」に他ならない。
 吉本は「共同幻想論」で、国家と社会がまだ明確になっていない、はっきりと分離していない萌芽期の、共同性を人類が獲得していく過程から国家を分析し始めた。やがて国家的な部分は政治や軍事を担い、社会は日常生活の習俗として社会に分離していくことになる。村落共同体の長老会が村落の運営、方針を決め、規則、秩序や禁止事項の保守義務を執行し、それが発達していくと政府や国家に至る。その下部構造としての社会が今週や国民となり、長老会に権力闘争の勝者が入ることで支配被支配の関係が生じてくる。これらが民族国家、あるいは国民国家へと変化していくことになる。ただ、この国家形成が社会を混合する程度の度合いにより、国家の多様性が世界に現存している。このあたりまで「共同幻想論」以降の論究で吉本は分析し尽くしている。
 民族とはなにか。これは曖昧にせず確認すると、方言はあるものの統一の標準言語が通用すること、異人種でも共通の風俗習慣を持つこと、そして考え方が社会内に一般的に通用すること。これらが満たされれば同一民族といえる。つまり、現代は民族国家が多くを占めていることが分かる。
 共同幻想は個人幻想とは逆立する。これは何を意味するのか。分かりやすい例では、小泉純一郎政権下での「郵政民営化」(本当はこれだけではなかったのだが)の民意を問う衆議院解散総選挙で、自民党は民営化反対派に刺客を送り、組織として個人を排斥した。その露骨な徹底ぶりには、不快感を抱かれた方も居たに違いない。党や組織の規律を守るために共同体が個人に牙を剥いた分かりやすい例になろう。実際には、戦争をあげるとさらに理解できるはずだ。ある民族国家が領土侵犯を犯し、両国が戦闘状態に入ったとする。ある個人が徴兵されたとき、仮に敵国に親族が居ることから徴兵拒否をしたとする。これは国家の強制力に対する服従義務違反として犯罪行為となる。イラクのアメリカ兵はアルカイダを殺すしかない。太平洋戦争での特攻隊を思い出してみていただきたい。死刑宣告された犯罪者にもいえる。好むと好まざるとに関わらず、国家は個人の生命をも自由にできるということになる。まさにこれが共同幻想は個人幻想に逆立するということの意味である。
 国家の起源は、部族連合が拡大して国家が機構として誕生する、という定説を吉本は覆している。村落共同体内の長老会などの支配層にある血縁親和の共同性は、そのままでは血のつながりがかえって話し合いなどで合一しやすく、それ以上に権力を集中したり、組織を統合して強大化していく根拠にはならないという。この前段階では、宗教性を持った村落の長の死とともに兄弟姉妹が継承し、姉妹が祠祭を担い、兄弟が実質的な現実の政治の部分を継承していくことは「共同幻想論」で述べられている。それ以後の国家形成は、血のつながりのない部族統合が鍵といえる。村落の支配層が村民の意志から分離して独自に軍隊をつくることによる。こうして、他部族を統合しても、軍部の制圧が他民族、ひいては自身の部族の民を従わせていくことで権力機構の基礎が作られるとする。血縁がなくなることで長老会などを無視し、その親和力をも壊していくことで伝統的な親和を無効にする。こうして軍事力を掌握した新たな支配層は、自己利益を追求するために既存の長老会の助言、仲裁などのすべてを拒否して、薄情な中央集権的権力機構の基礎を完成する。 ここでは、支配層に既存の長老の一部が入っていることで、より部族を統合しやすくなる。国家の起源のドラマが見えてきたのではないか。 





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Last updated  2008年02月18日 07時28分16秒
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