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前号で吉本思想を理解するにあたって、三つのキーワードをあげた。
「幻想」、「大衆の現像」そして「非知」である。相手の書物を批評するとは、批評する側の知性がほとばしり出てくる。書評の難しさは、自分の言語領域で、向かいあった著者の書いた書物のレベルを理解し、思考した内容をたどり、知の社会的位置づけを自分の力量と構想力で作り直して見せなければならない。 もちろん、彼の構想力は取り分け際だっている。その力が随所に新しい歴史的な思想を打ち立てている。考えることがこれほど刺激的で楽しいものなのかを身をもって感じさせてくれている。と同時に本人は産みの苦しみを負いながらも、十分な手応えを感じ、不安と裏腹に充実感を感じているに違いない。あるいは、自分がとてつもない領域に足を踏み入れていると知りつつ、ときには戦慄と恐怖を知力で押さえ込もうと、もがいているのかもしれない。 人類の知の歴史という時系列をたどり、その思想が人々のこころを捉えていく内に、思想家が意図した内容とは違う方向に動き出してしまう体験もしているはずだ。また、その誤解された思想の模写像に攻撃をかける敵手が大衆を扇動し、ありもしない曲解が批判の材料にさらされることなど日常茶飯事に違いない。言葉の重みと軽さ、視点の違いと意図的妄想が無数に空を飛び交う。知性は溢れかえるが、ほとんどの考えが、人身を惑わすガラクタだとは誰も気づかない。その思想の怖さを知り尽くした吉本が「非知」を目指すことの意味をどれだけの人間が汲み取れることだろうか。 今、自分の考えを信じて敵に論戦を挑んだとしても、勝敗の行方より、帰結する利益が誰のためのものか。あまりにも個人的なエゴのためではなく、あるいは現に国家の意図に乗じて戦争に荷担することに微塵の疑念も抱かない権力者達や大衆でもない。それこそが吉本が手にした、共同体の幻想にも揺れることのない「大衆の現像」に他ならない。 吉本は「共同幻想論」で、国家と社会がまだ明確になっていない、はっきりと分離していない萌芽期の共同性を、人類が獲得していく過程から国家の分析を開始した。やがて国家的な部分は政治や軍事を担い、社会は日常生活の習俗として社会に分離していくことになる。村落共同体の長老会が村落の運営、方針を決め、規則、秩序や禁止事項の保守義務を執行し、それが発達していくと政府や国家に至る。その下部構造としての社会が大衆や国民となり、長老会に権力闘争の勝者が入ることで支配被支配の関係が生じてくる。これらが民族国家、あるいは国民国家へと変化していくことになる。ただ、この国家形成が社会を混合する程度の度合いにより、国家の多様性が世界に現存している。このあたりまでを「共同幻想論」以降の論考で吉本は分析している。 民族とはなにか。これは曖昧にせずに確認すると、(1)方言はあるものの統一の標準言語が同一地域内に通用すること、(2)異人種でも共通の風俗習慣を持つこと、そして(3)考え方が社会内に一般的に通用すること。これらが満たされれば同一民族といえよう。つまり、現代は民族国家が世界で多くを占めていることが分かる。 共同幻想は個人幻想とは逆立する。これは何を意味するのか。分かりやすい例では、小泉純一郎政権下での「郵政民営化」(本当はこれだけではなかったのだが)の民意を問う(?)衆議院解散総選挙で、自民党は民営化反対派に刺客を送り、組織として個人を排斥した。その冷酷で露骨な徹底ぶりには、不快感を抱かれた方も居たに違いない。党や組織の規律を守るために共同体が個人に牙を剥いた分かりやすい例といえる。実例として戦争を取り上げると、さらに理解できると思われる。ある民族国家が領土侵犯を犯し、両国が戦闘状態に入ったとする。ある個人が徴兵されたとき、仮に敵国に親族が居ることから徴兵拒否をしたとする。これは国家の強制力に対する服従義務違反として犯罪行為となる。イラクに派遣されたアメリカ兵は敵であるという理由でアルカイダに属する人間を殺すしかない。また太平洋戦争での日本軍の特攻隊を思い出してみていただきたい。国家という共同体のために一個人は犠牲となって命を落としてしまった。これは、本人が望むと望まざるととにかかわらず、本質的に共同幻想が個に逆リッしてしまう分かりやすい例といえる。死刑宣告された犯罪者にもいえる。原爆投下のスイッチを押した空軍兵も、敵国という理由で大量殺戮を犯した。ナチスはユダヤ人という異民族を理由に、やはり人類史で最悪の大量殺人を犯している。国家は個人の生命をも自由にできるということになる。まさにこれが共同幻想は個人幻想に逆立するということの本質的な意味である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年03月14日 17時03分06秒
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