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カテゴリ:思想
丸山真男論のなかで、終戦直後の大衆の様子を「大衆は、それ自体として生きている。天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている。それから出発しない大衆のイメージは、すべて仮構のイメージとなる。」と指摘。大衆の日本的存在様式の変遷として設定しないと、大衆自体を変形させてしまう。例えば民主主義では大衆は国民国家の国民として法に従い民主主義思想の用語と確立に努めなければならないテーマを持たされる。社会主義国家では、プロレタリアートの国民として社会主義建設に寄与しなければ成らず、民族国家であれば民族の一員としての義務と責任を負うといったように、「大衆の原像」はさまざまな思想や共同体の幻想によって、仮構のイメージを負わされてしまうことになる。あるがままの大衆は、歪められてしまうことになる。
思想における真の課題は、日本型知識人の眼鏡を通して見られた、さまざまな体制や、階級や大衆の問題などは、それ自体が歪められた擬制の幻想である。大衆の存在様式を支配の様式が決定するのではなく、それらの共同幻想を排除することで、初めて大衆の真の姿を見いだしていくことが、思想的な課題であり、知識人は絶えず「大衆の原像」を繰り込むことで思想を検証し、新しい思想を構築すべきだと示唆する。 日本の知識人、学者とは、たゆみない実証的な検索のはてに、事物のイメージがおのずから沸き上がってくるのを待ちきれずに、文献の中に小さく挫折するか、あるいは素人にも容易く手に入る知識をかき集めて、一角の学者づらしているジャーナリストになりがちだと批判する。彼はその批判をできうるだけの思想を、単なる模倣ではなく日本の思想史に大きく構築して見せている。 思想の根源をどこに置くか。大衆の「無為」な生活と矛盾さえしなければ大衆それ自体はラジカリズムを決して回避するものではない。戦争に行くことを国家から強制され、あるいはその国民としての責務を化されたとしても、仮構のイメージとしての共同幻想の国家を拒否し、戦争をも回避する「大衆の原像」を思想の原点として行くべきだというのが、彼の大きな思想の核となっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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