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カテゴリ:思想
<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見下ろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂やかに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に<非知>に向かって環流するよりほかに仕方がない。
最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。」(最後の親鸞:吉本隆明著) 前号では、<大衆の原像>を取り上げたが、今号の<非知>とは密接な関係がある。吉本の<信>の構造「対話篇」では、次のように語っている。 知識あるいは理念的なものは、宗教や信仰と同様に閉じられていくという宿命にある。ギリシャ哲学以来、内容は高度に緻密になってきているが、結局その知識の収斂の仕方は閉じた体系になってしまう。そして、知識が閉じられると<党派>になってしまう。その党派性を防ぐにはどうしたらよいか。そこで<知でないもの>に価値の根底を置けば、、またそれを自分に繰り込んでいければ知識は閉じられなくて済むのではないか。こうして、彼の<大衆の原像>が考えられている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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