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カテゴリ:思想
今、なぜ吉本か?という問いを投げかけるとすれば、彼がものごとの原点を解析し、゛く、独自の視点でそれらを普遍的に言い直して展開して見せたところにある。それらの思想は私たちの考えを次へと進めていく上での大きな手かが狩りとして利用するに値する。そう思われることが宝庫のように眠っているからだ。
<大衆の原像>を捉えていく内に、私が上げた<非知>とその二つがつながることが分かり、心密かに興奮している。マルクスの労働価値説を突き詰めると全対象は人間により価値化されてしまう。論理的な探求は息苦しい閉塞感を感じる。これは、<知識>が閉じられてしまう運命にあること。世界性まで獲得する跳躍の可能性があっても、それは知識の自然過程で、それ以上は閉じていく閉塞感を持ち、やがて<党派>を生みセクト主義へと陥るのが学派の末路だ。そこで、それを防ぐには<非知>なるもの、つまり無価値なものを繰り込むことで、絶えず<知>を開くことが<党派性>を回避するための唯一の方法だ。そこで<非知>つまり<知>ではないものに価値の根源を置くこと、<知識>を繰り込めるようにすることが、人類の全思考史の転倒へとつながると判断した。そして、<大衆の原像>が、吉本が設定した、まさに<非知>であった。一人の人間が、生まれやがて結婚し、子供を産み、老いてて死ぬ。この人の身体の生理的自然過程にそって、人の考えも動いて行くという生き方が一番普遍的な、価値のある生き方であると、吉本の世界思想は行き着いたのだ。大きな思考のドラマを見ているような気がする。 大衆を否定したり、大衆を利用し大衆を犠牲にし権力を振るう官僚や権力者の構造を、どうしたら解体できるか。彼は生涯をかけて、このテーマと立ち向かってきた。 アジア的な様式は、時間軸としてのアフリカ的段階からアジア的段階へといたり、やがて西欧的近代的な段階へと移る。その時間的な自然過程で、さらに高度資本主義的段階へといたるのも必然だと断定する。現代の民族国家の経済構造的な下部構造は、第一次産業である農業・漁業・林業といった生産部門と第二次産業である製造部門の上に成り立ってきている近代国家といえる。現在の日本の国家形態も、地方自治の形態も民主主義の基層には日本的な政治構造とともに、この民族国家の三権分立と議会制民主主義が官僚制度とともに成り立つ国家といえる。 ところが、産業経済構造は1960年から80年の間に飛躍的に変化し、サービス業主体の第三次産業、さらには情報産業である第四次産業へと返還してきている。この多様化した産業構造の変化に対して、国家形態は古い構造のままに変更されずにあるために、多くの矛盾や破綻が生じてきているというわけだ。世界のすべての先進国もこの変化のイメージに追いついていけていない。その新たな動きの端緒は欧州共同体で、無意識の最先端は既存の国家の枠から新たな枠組みの構築を、どこまでやるかが一つの動きの目安となる。 すでに世界経済は一国ではコントロールできなくなっている。すでに、先進国は経済、政治、環境など主要なすべての問題で一国主義が破綻していることを示している。欧州共同体以上の世界性が、緊急に健闘されるべきなのは人類存続の命運ともいえるのではないか。 これを意識的に制度解体し直すために、吉本は3つのことを加えれば脱出の可能性があるという。そのヒントを利用してみた。 その第一は、国家が軍隊を持たない。つまり、国家機構から自衛隊や国軍といえる組織を切り離す。その組織を地方政府に移譲し、地域が管理する。基礎自治体の住民の承認なくして地方政府軍は行動し得ない。たとえば、それが道州制だとして地方自治体が自治体軍を保持し、派遣等は議会の議決や民意により2/3以上の賛成で行動するという条令を設ける。こうすることで、一部の権力者の一方的な戦争を抑止できる。 第二は、共同体管理として、あくまで公共性が高く、民営化すべきではないもののみを公有化、公営化する。それ以外はすべて民営化する。官僚制機構を解体し、公務員制度改革を図る。 第三は、中央政府、地方政府の首長の選任および罷免権は住民が有し、政府及び自治体の解散権は2/3の合意により、首長とともに住民がその任免権(リコール権)を有する。首長は任期制とし、徹底した情報公開を推進する。 これら三項目は、吉本の理論の応用で出てくる結論である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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