カテゴリ:演劇・ミュージカル
菊五郎、仁左衛門、吉右衛門、玉三郎のお話
團十郎が同じ白血病の方を、舞台鑑賞や楽屋に招いてみんなで手を合わせて激励しているところ、思わず おおらかさ、優しさ、荒行で成田屋は神になられたのでしょうか。 一度病気になったらなかなか完治することは出来ないのでしょうか、はかない命 私も腰痛から始まり、甲状腺、胆管がん発病し、手術してもらい今は腰痛以外自覚症状ありませんが。昨日、ルンバが歪み動かなくなり掃除機使用したらたちまち腰痛、大名古屋温泉に駆け込みました(苦笑) 【総合テレビ】 市川團十郎さんをしのんで 放送:2月11日(月)午後2:00~3:00 3日、歌舞伎界を代表する人気俳優の十二代目市川團十郎さんが66歳で亡くなった。300年以上の歴史がある江戸歌舞伎の大名跡を継いで「荒事」などの至芸を磨いてきた團十郎さんをしのんで、「勧進帳」「助六」「暫」「象引」「鳴神」などの演目を鑑賞。若き日のドキュメンタリー「大看板 團十郎への道」や「オペラ座の弁慶 團十郎・海老蔵 パリに傾く」など、貴重な映像を交え語り合う。【ゲスト】尾上菊五郎、山川静夫 菊五郎さん、本当にお小さいころからですね長い長いおつきあいということですよね。 菊五郎 60年以上のおつきあいですからね。 そのころ菊五郎劇団っていうのがありましたけども菊五郎劇団ではあまりお客が呼べないというのでお父様の十一代目團十郎のおじさんがいつも参加してくださいまして。 そうするとお客様がいっぱい来てくだすってそのおじさんっていうのは非常に華があってそういう関係でもって子どものころからいつも一緒におりましたんでね。 今、どんなお気持ちでいらっしゃいますか?いや、お疲れさまです。 本当に。 あとは彼の心の中は分からないですよ。 ただ、一緒に新規開場する歌舞伎座で一緒に舞台を務めたかったなというそれは私の気持ちです。 山川さんはですねその團十郎さんの舞台をですね長年、本当、見てこられたお一人として、今どんなお気持ちでいらっしゃいますか。 そうですね、とにかくね芸もすばらしかったしお人柄もすばらしかったしそのね、すばらしいものがね全部、どっかいっちゃったというね。 それが本当に寂しいししかも新しい歌舞伎座ができる前ですからね。 さぞや團十郎さんは無念だったと思います。 けれんみなくねちょっと私どもじゃ恥ずかしくなっちゃうようなことでも平気にやるのがそれが荒事なんだなと教えられましたよね。 ちょっと私どもがそうやって「ワッハッハ」って笑ったらねそりゃ何やってんだって言われますけどねやはり彼がやると荒事なんですよね。 仁左衛門 例えば、正直言って関西から出てきたときにねあちらは成田屋という看板を背負っている。 だから絶対、守られてるという気はありました。 それに対する嫉妬というものはありましたよね。 確かにねけど、そういうものを超越して本当に仲がよかったからだから、よけいにライバル意識というか。 とにかく、あの人はでしゃばらない。 会議がありましてもね一歩下がってそれで、自分の意思を通すという。 ああいう人、なかなか出てこないんじゃないかな。 で、怒ったの見たことないしね。 お父様、おじ様はねよく怒ってらしたけど。 彼の怒ったの見たことない。 どなったのも見たことない。 僕は知らない。 彼とは、同い年で生まれ月も一緒なんですよ8月で。 中学、高校と同じ学校行っておりましたんでねなんか、こう團十郎さんっていうよりも堀越夏雄さんっていう感じでいつも、ふだんも夏雄さん、夏雄さんって呼んでたんですけれどもね。 一番思い出に残ってるのは「勧進帳」ですね。 まだ、もちろん海老蔵時代新之助時代だったかもしれないけれども新橋演舞場で若手の歌舞伎の公演がありましてもちろん当時われわれ皆、若手ですからそのとき夏雄さんが弁慶で亡くなった辰之助さんが富樫で私が義経で。 ともかく彼の、夏雄さんの弁慶はもう本当に、そのころからいかにも弁慶らしい。 市川宗家の大きさも持っておりましたし。 とても、その義経に対する情も深くって。 だから、私初役の義経なんですけれどもあの、すーっと夏雄さんの弁慶の懐に飛び込んでいけるっていうようなそういう感じがいたしました。 玉三郎「成田屋さん(市川團十郎家の屋号)とは昔からたくさんのお相手役でご一緒させていただきました。同世代の方たちが亡くなっていくのはこの上なく寂しいことです。先日からいろいろと悲しいことがあり、今の自分の心中の『未来』という字に、いつ晴れるともない霧がかかってしまいました。心よりご冥福をお祈りいたします」 私は二十歳過ぎからずっとコンビを組まさせていただいたんですね。 本当に、そうですね…。 團十郎を襲名なさるまではいつも一緒しておりましたので。 一番初めに大きなお相手役をさせていただいたのが「鳥辺山心中 (とりべやましんじゅう)」の芝居と「鳴神不動北山桜 (なるかみふどうきたやまざくら)」の鳴神だったんですね。 この二役を歌舞伎座で一番初めにご一緒させていただいたんですね。 これがいつまでも大きく残っております。 そのあとは、もう本当に大きなものたくさんやらせていただきましたけどもこの若いときの2つのお役というのは本当に思い出ですね。 あの「鳥辺山」の半九郎それから「鳴神」は若いときの成田屋さんには本当に似合ってらしてお役柄、それから人 (にん)というんでしょうかね。 そういうものが合ってらしてコンビを組みながらも憧れの俳優さんだったんですね私にとっては。 私は若いころ、テレビでこの海老玉コンビで鳴神観てなんてエロッチックなのに、面白いんだろう、綺麗と感心しました。 鳥辺山の方は本当に若くて、悲しそうな二人の立ち姿が目に焼き付いています。 どなたかおっしゃったように玉三郎丈は勘三郎、團十郎と二人の旦那様を続けて亡くされ晴れない霧の中にいられるのでしょう、それでもパリシャトレ座の舞踊と昆劇上演されて、皆様を喜ばせていらしゃるのでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.02.14 13:03:38
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