今頃ですが初夏の京都と玉三郎
箱根の旅の記事の途中ですが、半年前に南座に行く途中、どんなことで月曜日に予約。美術館もお休みなので修学旅行でもお馴染みの有名なお寺へ。修学旅行の時はこんなお庭があるのも知らなかったのです。係の方も驚く、すき具合で仏様にゆっくりお目にかかれました。 その他の写真はこちら どこか、おわかりでしょうね。[http://sanjusangendo.jp/ 三十三間堂][[attached(3,center)]][[attached(4,center)]]祇園から南座へ直行しようと思ったら双龍図公開のお知らせ看板が!まだ開演には時間があったので寄り道しました。[[attached(5,center)]]建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵などの文化財を豊富に伝える。Wikiより[[attached(6,center)]][[attached(14,center)]]東陽坊天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。[[attached(7,center)]][[attached(17,center)]][http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/Tamura_gessho_oosuzuri.htm 田村月樵たむら げっしょう遺愛の大硯]田村月樵は、現在の京都府園部の近郊に生れた画家です。幼少より絵筆に親しみ、南画や日本画を描き、明治時代に入ると西洋画も描き、晩年は仏画に没頭しました。67歳から69歳の時に、建仁寺の方丈の襖絵「唐子遊戯図」や塔頭 霊源院(僧堂)の襖絵「雲龍図」を描きました。方丈の裏側にあるこの「田村月樵 遺愛の大硯」は、月樵が生前愛用した長さが三尺もある大きな硯で、大海原に臨んで一匹の蛙が腹ばいで前進する様子を月樵自身が刻んだと伝えられるものです。 [[attached(8,center)]][[attached(9,center)]][[attached(10,center)]][[attached(11,center)]][[attached(12,center)]][[attached(13,center)]][[attached(15,center)]]「由縁(ゆかり)の月」「重戀雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」の2演目を上演する。「重戀―」では中村獅童(37)、中村隼人(16)の若手2人を相手に踊っ他玉三郎。来年のお正月、海老蔵の代替え公演も中村獅童との「阿古屋」です。今年は八千代座でも中村獅童と共演でしたが、観ることはできませんでした。「由縁(ゆかり)の月」「元文5年(1740)の床開きに初演されて以来流行と伝えられる(『摂陽奇観』)。思わぬ人に身請けされようとしている遊女が、我が身を月影に寄せてその心情を歌ったもの。なお、この曲の流行は著しく、明和8年(1771)には、「ぬかりの月」という替歌まで作られた(『摂陽奇観』)。「重戀雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」雪の降り積もる逢坂の関では、不思議に小町桜が咲いている。そこには良岑宗貞(後の僧正遍照)が隠棲していたが、元の恋人小野小町姫が通りかかり、その仲を関守の関兵衛が取持とうとする。しかし関兵衛はどこか怪しい。(上巻) 関兵衛こそは実は天下を狙う大伴黒主[1]だった。これまでその機会をうかがっていたのだが、星占いの結果今がその時と知る。早速、野望の成就祈願に使う護摩木とするため、小町桜を切り倒そうとする。しかしそこに薄墨と名乗る遊女が現れ、関兵衛をくどきはじめる。薄墨こそ、小町桜の精で関兵衛の野望を阻止するため、人の姿をして現れたのだ。やがて二人は互いの正体を現し、激しく争うのだった。(下巻)Wikiより昔、歌右衛門の薄墨をテレビで観たけど…私の頭では綺麗だ~と見ていればいいかも(苦笑)[[attached(16,center)]]ここは何だったか?