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2008.01.03
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カテゴリ:カフェ感
むかし、日本がアメリカと戦争に突入する少し前、軍の暴走が激しくなるなか、”私の在任中、戦争はない”と断言した外務大臣がいました。それが廣田弘毅(ヒロタコウキ)です。にもかかわらず、この人は、日本が戦争に負けた時、東京裁判で軍人たちのなか、唯一文官として”デス バイ ハンキング”を宣告された方です。判決の翌日から減刑のための署名運動が行われ、東京で3万名、福岡では実に7万2千名もの署名が集まった。(終戦直後の混乱の時期にです)彼は、貧しい石屋の長男として生まれます。小学生のころは、学校が終わると、付けようの松葉を売り歩き、夜になると友達から教科書を借りて勉強する日々を送ります。つねに”自分で学費を稼いでなにが恥ずかしいか”と自分を奮い立たせていたそうです。外交官にあこがれて試験を受けるも英語の点数が悪く不合格。でも彼はすぐさま、アメリカ公使館の通訳の仕事を見つけ働きだし、翌年、トップで試験に合格します。しかし、その後の廣田はつねに軍の圧力の前になすすべがありません。たとえて言えば、当時の日本で軍の批判を言うということは、今の北朝鮮で軍の批判を言うのと同じくらいリスクのあるものです。
戦争末期、廣田が終戦工作をしているという情報が漏れ、”日本軍の飛行機”が低空飛行で廣田の家に銃弾を撃ち込むこともあったそうです。 そして警察からは近所迷惑になるから引っ越せとの指示があったそうです。。。
練馬の知人宅に移れることになり、消防車で移動中、なんども軍の車とすれ違い、家族が”顔を伏せてください”といっても聞かず、彼は、平気な顔で沿道の焼け跡をいつまでも眺めていたそうです。
 そして、その後日本は戦争に負け、東京裁判が始まります。
そして、廣田は公判中、一言たりとも己を弁護することはなかったそうです。みかねて軍人の一人、佐藤賢了が”戦争に負けて殺されるのは、われわれ軍人だけでたくさんだ。あなたのような外交官などは早く帰ってください”といったそうです。その時、廣田は佐藤に”尋問に正直に答えれば、他の人に迷惑がかかるでしょう”と言ったそうです。
 最期、処刑に立ち会った監視兵の話です。
”ほかの人はいろいろ身振りをしたり、つぶやいたりししていたが、廣田さんだけは終始黙々として一言も口をきかない。そして顔色一つ変えずに、黙々と絞首台に上がっていきました。
そのときの光景は、私の脳裏にまざまざとこびりついています”と話したそうです。
 付け加えておくと、廣田の最愛の妻、静は廣田の裁判が始まり、廣田が”申し開きはしない”と覚悟を決めたのを見て、廣田の心残りがないようにと、彼女は自ら命を絶ってしまいます。そして死の直前に彼女は子供たちに”パパを楽にしてあげる方法がひとつある”と言い残していたそうです。そして、廣田は静の死を知った後も、家族宛の手紙を書く際には、文末に”シズコドノ”と書き添え、静宛として送っていたそうです。






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Last updated  2008.01.03 20:38:48
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