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カテゴリ:ワコールをつくった男/塚本幸一
ワコールを創業することになる塚本幸一は、
八幡商業を卒業すると。。。 *八幡商業は、前回の日記で紹介した近江商人を育てる学校として ヴォーリズが、塚本の入学する少し前まで教鞭をとっていた学校です。 塚本は就職試験に落ちてしまったので。。。やむなく家の手伝いを始めた。 仕事は繊維製品の卸をしていた。 仕事を手伝い始めて2年目からは、 ようやく一人で得意先まわりを任されるようになっていた。 当時、日本は、徴兵制だった。 成人になった男子は、全員、軍人となった。 日本の男子に。。。かるいノリの男は存在できなかったのである。 塚本の母は心配した。 ”なにもあんたのような一人息子が戦争に行かなくても。。。 病気にでもなって、なんとか兵役免除にならないものだろうか。。。” 徴兵検査が近づくにつれて、母親はとても不機嫌だった。 昭和15年の9月、塚本は二十歳になっていた。 このとき世の中は。。。 戦争へ向け、まっすぐに進んでいた。 そして、 日本から発信された一通の暗号電文が、 ハワイへ向かう。。。日本の機動部隊へ飛んだ。 ”ニイタカヤマノボレ ヒト フタ マル ハチ ” *新高山(ニイタカヤマ)とは台湾の山です。 日本の富士山より高い山でした。当時、台湾は日本の領土となっており つまり”12月8日に、一番高い山(アメリカ)を登れ!”という意味。 暗号電文をうけっとた、日本の機動部隊は。。。 日曜の早朝、まったりくつろいでいた、アメリカ合衆国のハワイへ 200機ちかい戦闘機で奇襲攻撃をかける。 この瞬間、日本はアメリカと戦争に突入。 そして、 ワコールをつくることになる、若き塚本青年は戦局の拡大する、泥沼の中国へ。。。 そして、導かれるようにして。。。運命のインパール作戦へ従軍する。 インパール作戦とは、 中国を屈服させるためには、その補給路となっているインドのインパールを 攻略する必要があった。戦争の長期化を避けるためにも大事な作戦だった。 しかし、この作戦は無謀だった。 10万人の兵力で、3ヶ月掛かると試算されたインパール作戦だったが。。。 兵隊の腹を満たす食料は、わずか1週間分しかなかった。 足りない分は、現地調達せよ!とのことだった。 しかもこのとき、制空権はすでになくなっていた。 昼間になると、日本軍は戦闘機の標的となった。 戦う前から、 ”勝敗が決していた” 戦いだった。 現場の南方総軍の総参謀副長の稲田などが無謀なインパール作戦に強硬に反対したが。。。 時の首相、東條英機らによって作戦に反対するものは、更迭され 作戦は実施される。 後世。。。 インパールへの道は、白骨街道と呼ばれた。 約10万の兵士のうち。。。4万もの兵士が亡くなった。 塚本の所属する55人の部隊の生き残りは。。。 塚本を含めてわずか3名だった。 そして、昭和20年8月15日となる。。。終戦。 塚本は、タイで武装解除となり、 オランダの捕虜収容所で半年を過ごし、 日本へ帰る船に乗ることが出来た。 船の中で。。。 塚本の頭の中には、いつも戦友の死に顔でいっぱいだった。 ”もし、あのときの任務が、戦友ではなくて、自分の担当だったら。。。 自分は間違いなく死んでいる。今の自分はいない。” 生きていることを素直に喜ぶことはできなかった。 ”なぜ、俺は生きているんだ。” ”どうして、俺だけ助かったんだ。” いよいよ船が、日本へ到着する日が近づいてきた。 悩みに悩んだ塚本の頭の中に。。。 閃光がはしる。 ”そうだ! 自分は生きているのではない。生かされているんだ。” ”自分は一度死んでいる。” ”これからの自分の人生は生かされた人生であって、自分個人だけのものではない。” ”敗戦後の日本が再建のために、自分を必要として生かしてくれたんだ。” ”なんとしても期待に応えなければならない。” ワコールを創業することになる塚本幸一、日本に帰る復員船の中で感じたことだった。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.02 13:14:28
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