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カテゴリ:カフェ感
そもそも吉兆は、神戸の料理屋の跡取り息子だった湯木貞一が独立し 大阪に来て小料理屋、”御鯛茶処・吉兆”をはじめたところからスタートする。 茶懐石の精神を盛り込み、独創的な料理をリリースし、 日本を代表する高級料亭へと、かけのぼっていった。 そして、料理人として、湯木は、日本ではじめて文化功労賞を受賞し この時をきっかけとして、世の中の料理人の地位が向上したと言われている。 湯木の果たした役割は大きい。 そして、一男四女の子宝にも恵まれ、それぞれ子供達には店を継がせたのだった。 一人息子だった長男には、大阪・高麗橋の”本吉兆” 四人の娘たちは、それぞれ料理人を養子に迎えたうえで、 長女夫婦の、東京吉兆 次女夫婦の、京都吉兆 三女夫婦の、船場吉兆 四女夫婦の、神戸吉兆 この五つの吉兆のうち、もっとも事業欲が盛んだったのが船場吉兆だった。 当時、若者が集まる心斎橋のファッションビル”OPA”に新店をオープンさせ、 カレーライスを出し、独自の明太子商品を開発し、大ヒットさせてからは プリンやタルトなどの洋菓子などの商品販売にも力をいれて事業を拡大させていった。 法事などの席で、吉兆の親族が集まると、 事業の多角化でどんどん売り上げを伸ばしている船場吉兆のことがよく話題になったという。 吉兆の創業者、湯木貞一のことば ”料理の道に携わるものが踏み外してはならぬ掟(おきて)がある。 まず、季節を守ること。 旬を大事にすること。 調子に乗らぬこと。 屏風と店は広げすぎたら倒れるものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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