|
カテゴリ:松下幸之助
松下電器(パナソニック)を創業することになる松下幸之助は。。。
子どもの頃、大変だった。 1899年、 松下幸之助の父親は、米相場で失敗し自己破産。 一家は、和歌山市へ転居し、細々と下駄屋を始める。 しかし父親には商才もなく 店はまもなく閉店。 松下幸之助は。。。 尋常小学校を4年で ” 中退 ” わずか9歳で 宮田火鉢店(みやたひばちてん)に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出される。 今日はその時の話。 9歳の松下幸之助は、宮田火鉢店に丁稚奉公に入り、 朝早くおきて、ふき掃除をし、子守をし、火鉢(ひばち)を磨いたりするという 生活が始まった。 幸之助は故郷で困窮した生活を経験していたので、 仕事そのものはそれほどつらいとは思わなかったそうだ。 しかし、9歳で故郷を離れた心の寂しさには耐えられず、 夜、店が閉まって寝床に入ると、 母親のことを思い出して涙をこぼす日が続いた。 奉公を始めて半月あまりたったある日、 ご主人が、 ”ちょっとおいで”と幸之助を呼ぶ。 そして ”ごくろうさん、給料をあげよう”と言って、 五銭白銅を手渡してくれた。 幸之助が故郷にいた頃は、 母に一厘銭をもらい、近所の駄菓子屋であめ玉を二個買うのが なによりの楽しみだった。 幸之助にとって五銭白銅は大金だった。 幸之助は、 ”たいへんなお金をくれるのだなあ”と、はじめて五銭白銅を手にしたうれしさに がぜん元気が出て、それからは、”母恋し”の泣き虫もすっかり治ってしまったそうだ。 五銭白銅とは、 現在の貨幣価値で500円。 二週間、朝から晩まで働いて500円。 幸之助は、この金額を”たいへんな金額”と言っている。 わたしは、松下幸之助が、のちに世界企業をつくりあげることが出来たのは、 この時の、”純粋な感覚”を生涯もち続けることが出来たからだと思う。 ”松下幸之助は、社会的弱者であったが、それを不幸に思うことはなかったし、 ましてや他人のせいにするようなことは一度もなかった。” 幸之助は、90歳を過ぎてからのインタビューで、こう話している。 新聞記者。 ”今まででいちばんうれしかったことはなんですか?” 松下幸之助 ”はじめての奉公先で五銭白銅をもらったときです。” ご存知だろうか。 松下幸之助は、日本の長者番付に40年連続で登場し、 生涯で、約5000億円の資産を築いたと推定されている。 その男の一番うれしかった出来事は、500円の初任給だった。 むかし、 浅草の浅草寺にある雷門の大提灯(だいちょうちん)は、 100年近く仮設状態のままになっていた。 それを聞いた、松下幸之助は不憫に思いポケットマネーを出し提灯を再建させた。 その提灯の『雷門』の下の部分には、”松下電器産業株式会社 松下幸之助”と 金色の文字で書かれたプレートが貼られている。。。 このプレートが、”パナソニック”へ書き換えられる予定は無いそうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[松下幸之助] カテゴリの最新記事
|