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カテゴリ:松下幸之助
”みのるほど頭を下げる稲穂かな” 1964年の暑い夏の日 東京の五反田にある住友銀行に一本の電話がかかってきた。 当時の住友銀行、五反田支店長は、樋口 廣太郎(ひぐち ひろたろう)38歳だった。 ”もしもし樋口さんですか。松下です。” 樋口 ”。。。失礼ですが、どちらの松下さんですか?” 幸之助 ”会長の松下です。” 会長。。。樋口は絶句した。松下グループの総帥が。。。 一支店長に直接、電話を掛けてきている。 樋口が失礼を詫びるまもなく、幸之助は続けた。 ”樋口さん、ええこと教えてくれはったな。おおきに ” なんと、トップみずから、お礼の電話を掛けてきたのだった。 このお礼の電話の発端(ほったん)となった出来事とは。。。 樋口 廣太郎は支店長に就任早々、取引先を一軒、一軒歩いてまわった。 すると。。。あることに気づいた。 それは取引先の電気問屋や小売店主人の顔色がとても悪いことだった。 調べてみると。。。 彼らは過剰な在庫に苦しんでいることが分かった。 その過剰在庫の原因は、松下電器からの”押し込み販売”だった。 樋口は、”これは放っておくと大変なことになる。”と直感し、 松下電器の財務担当取締役に、その情報を伝えたのだった。 財務担当から報告を受けた松下幸之助は、すぐに樋口の行動に対して、 直接、感謝の気持ちを伝えたのだった。 そして、 このやり取りの後。。。 あの、 伝説の熱海会議が開催される。 幸之助も、販売店側も、ともに涙を流しあいながら徹底的に話し合い活路を見出していった。 熱海会議 住友銀行、五反田支店長の樋口 廣太郎は。。。 このとき巨大な企業のトップでありながら、 自ら進んでお礼の電話をかけてきた幸之助の姿勢と、 都合の悪い知らせに対して、”ええこと教えてくれておおきに”と言える度量に 深い感銘を受け、以来、幸之助を師と仰ぐようになった。 そして、 時は流れ。。。 樋口は、住友銀行副頭取から、 倒産の危機に瀕していた当時のアサヒビールの経営建て直しのために、 社長として送り込まれたのだった。 そして、 樋口の最初にとった行動とは。。。 東京の中央区新川にあるキリンビール本社へ行くことだった。 そこで樋口は、キリンビール社長に、深々と頭を下げ。。。 ”わたしは銀行からやってまいりましたもので、 この世界のことは正直なところよく分かりません。 恥を承知のうえでお伺いさせていただきますが、 いったいアサヒビールのどこがいけないのでしょうか” と、アサヒビール社長の樋口がキリンビール社長に尋ねたのだった。 キリンビール社長は言う。 ”アサヒビールの味はよくありません ” ”もっと原料を吟味し、味の改善を図るべきだと思います。”と教えてくれた。 さっそく樋口は、キリンビール社長のアドバイスを受け、徹底的に品質の改善、 商品開発に力を注いでいった。 そして、あのビールが生まれたのだった。 あのビールとは、 そう、”アサヒスーパードライ” ”キレのある辛口”という新ジャンルを構築し、 見事に会社を建て直し、 キリンビールを抜き去ってしまったのだった。 樋口のこのときの手法。。。 若き日の樋口が、まだ五反田支店長時代に感銘を受けた、 松下幸之助の行動と、どこかオーバーラップするのは気のせいだろうか。。。 ”実るほど、こうべをたれる稲穂かな ” お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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