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カテゴリ:カフェ感
”男は一生に一度でいいから、 子孫に自慢できるような仕事をすべきである” この言葉は、いったい誰が、どんな意味をこめて放った言葉か。。。 1959年(昭和34年)9月26日 超ウルトラ大型台風(伊勢湾台風)が日本を直撃。 アメリカ軍の観測では、風速90メートルを記録した。 風速90メートルとは。。。 風が1秒間に90メートル移動するということ。。。 とうぜん人は立っていることはできないし、 日本の木造建築物は木の葉のように。。。 また、当時、台風の接近と伊勢湾の満潮時刻が重なったことで、 大規模な高潮が発生してしまった。。。 死者4.697名、 行方不明者401名、 負傷者39.921名 日本が、悲しみに包まれた一日となってしまった。 日本は、この苦い経験を踏まえ、 台風被害を予防するため、 日本全土に近づくおそれのある台風の位置を、 早期に探知することが社会的な要請となっていった。 気象庁は対策として、 日本全土をカバーできる強力な気象レーダーを設置することにしたのだった。 レーダー波が、山などにさえぎられずに日本中をカバーできる場所。。。 そんな場所は、たった一箇所しかなかった。 そう、富士山、山頂だった。 富士山、山頂とはどんな場所か。。。 年間の平均気温はマイナス6.4度。 ちなみに、 日本最北端の北海道、稚内市(わっかない)で+6.6度、 日本一の最低気温を記録した北海道の旭川市でも+6.7度。 平地でこの寒さの土地を探すと、シベリアの北極圏付近の地域が相当する。 そして真冬の富士山頂は。。。マイナス38度にもなった。 また富士山頂は、常に強風が吹き荒れており、 風速20メートルを超す台風並みの風の強い日が年間121日にもなった。 。。。レーダーの設置を請け負ったのは三菱電機だった。 山頂の現場に投入する資材の搬入方法はブルドーザー、 強力(ごうりき。つまり人力輸送)、 ヘリコプターの3つの方法を使い分けることにした。 工事の資材は、じつに500トンを超えた。 そして、もっとも問題だったものが、 強力なレーダーを保護する「トリカゴ」と呼ばれる、 白い球状型のドームを輸送することだった。 この、”トリカゴ”、 風速100メートルの強風にも耐えることができる頑丈な仕様になっていた。 そのため、重量がじつに620キロにも達した。 山頂へ搬送する際、 分解して運送し、山頂で組み立てることは不可能だった。 また、地上から輸送ヘリコプターで運ぶには、 ヘリコプターの揚力(最大480キロまで)がぜんぜん不足していた。 難工事、最後の障害となっていた。 。。。。どうする。 当時の日本。。。 こういう時。。。追い詰められると。。。 ”安全”よりも”使命”を優先する国民なんです。 富士山頂が、晴天で無風の日が来るのを、ひたすら、じいっ~と待ちます。 そして1964年8月15日。 元、ゼロ戦のパイロットが熟練の操縦技術でヘリコプターを操り、 とうとう、 620キロの巨大レーダー防御ドームを、 無事に富士山頂に送り届けることに成功したのだった。 このときのパイロットの言葉。 ”ご加護をいただいたすべてのものに感謝して、 ”ありがとう”を3回ぐらい叫びました。大声で。” 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 さて、前段で紹介した言葉の主の話に戻りたい。。。 言葉の主は、 まだ29歳、 大成建設、若手社員の伊藤庄助だった。 昭和38(1963)年夏、 “おまえは若くて元気だから”という理由で、 現場監督に抜粋された伊藤は、当初、期待に胸をはずませて、富士山頂へ向かった。 ”雪が解けた富士山はどんなだろう! 何かすごいことがあるんじゃないか!” しかし、 作業が始まってみると。。。 作業員全員が頭痛や吐気、呼吸困難に襲われ、次々と倒れていった。 標高3776メートルの山頂の空気は、平地の三分の二の薄さだった。 そう、作業員は次々と高山病にかかっていった。 伊藤自身も仕事を始めて四日目から顔や手足がむくみだした。 日中、世界が黄色く見え、 夜は自らの動悸がうるさくて眠れない日々が続いた。 過酷な工事が続く中で、 伊藤は、まるで別人のように、やせ細り、衰弱していった。 そして、構想から5年、 ようやく世界最大の富士山レーダーは完成する。 伊藤は、責任から解放され、ようやく下山することになった。 その伊藤が、下山する少し前、 自然と口からでた言葉。それが前段の言葉です。。。 ”男は一生に一度でいいから 子孫に自慢できるような仕事をすべきである” 富士山こそ、その仕事だ 富士山に気象レーダーの塔ができれば 東海道沿線からでも見える それを見る度に おい、あれは俺が作ったのだと言える。 子供や孫にそう伝えることができる。” お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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