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カフェ感

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2009.06.05
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カテゴリ:カフェ感

”男は一生に一度でいいから、


  子孫に自慢できるような仕事をすべきである”






この言葉は、いったい誰が、どんな意味をこめて放った言葉か。。。







1959年(昭和34年)9月26日


超ウルトラ大型台風(伊勢湾台風)が日本を直撃。


アメリカ軍の観測では、風速90メートルを記録した。


風速90メートルとは。。。


風が1秒間に90メートル移動するということ。。。


とうぜん人は立っていることはできないし、


日本の木造建築物は木の葉のように。。。


また、当時、台風の接近と伊勢湾の満潮時刻が重なったことで、


大規模な高潮が発生してしまった。。。



死者4.697名、


行方不明者401名、


負傷者39.921名



日本が、悲しみに包まれた一日となってしまった。





日本は、この苦い経験を踏まえ、


台風被害を予防するため、


日本全土に近づくおそれのある台風の位置を、


早期に探知することが社会的な要請となっていった。


気象庁は対策として、


日本全土をカバーできる強力な気象レーダーを設置することにしたのだった。



レーダー波が、山などにさえぎられずに日本中をカバーできる場所。。。


そんな場所は、たった一箇所しかなかった。


そう、富士山、山頂だった。




富士山、山頂とはどんな場所か。。。




年間の平均気温はマイナス6.4度。


ちなみに、


日本最北端の北海道、稚内市(わっかない)で+6.6度、


日本一の最低気温を記録した北海道の旭川市でも+6.7度。


平地でこの寒さの土地を探すと、シベリアの北極圏付近の地域が相当する。


そして真冬の富士山頂は。。。マイナス38度にもなった。



また富士山頂は、常に強風が吹き荒れており、


風速20メートルを超す台風並みの風の強い日が年間121日にもなった。




cs_jnhk0005_0101_04.jpg








。。。レーダーの設置を請け負ったのは三菱電機だった。



山頂の現場に投入する資材の搬入方法はブルドーザー、


強力(ごうりき。つまり人力輸送)、


ヘリコプターの3つの方法を使い分けることにした。



工事の資材は、じつに500トンを超えた。


そして、もっとも問題だったものが、


強力なレーダーを保護する「トリカゴ」と呼ばれる、


白い球状型のドームを輸送することだった。



images.jpg




この、”トリカゴ”、


風速100メートルの強風にも耐えることができる頑丈な仕様になっていた。


そのため、重量がじつに620キロにも達した。


山頂へ搬送する際、


分解して運送し、山頂で組み立てることは不可能だった。


また、地上から輸送ヘリコプターで運ぶには、


ヘリコプターの揚力(最大480キロまで)がぜんぜん不足していた。



難工事、最後の障害となっていた。



。。。。どうする。




当時の日本。。。


こういう時。。。追い詰められると。。。




         ”安全”よりも”使命”を優先する国民なんです。






富士山頂が、晴天で無風の日が来るのを、ひたすら、じいっ~と待ちます。



そして1964年8月15日。



元、ゼロ戦のパイロットが熟練の操縦技術でヘリコプターを操り、



cs_jnhk0005_0101_02.jpg




cs_jnhk0005_0101_03.jpg








とうとう、


620キロの巨大レーダー防御ドームを、


無事に富士山頂に送り届けることに成功したのだった。



このときのパイロットの言葉。


”ご加護をいただいたすべてのものに感謝して、


 ”ありがとう”を3回ぐらい叫びました。大声で。”



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



さて、前段で紹介した言葉の主の話に戻りたい。。。



言葉の主は、


まだ29歳、


大成建設、若手社員の伊藤庄助だった。



昭和38(1963)年夏、


“おまえは若くて元気だから”という理由で、


現場監督に抜粋された伊藤は、当初、期待に胸をはずませて、富士山頂へ向かった。 



”雪が解けた富士山はどんなだろう!

 何かすごいことがあるんじゃないか!”



しかし、


作業が始まってみると。。。


作業員全員が頭痛や吐気、呼吸困難に襲われ、次々と倒れていった。


標高3776メートルの山頂の空気は、平地の三分の二の薄さだった。


そう、作業員は次々と高山病にかかっていった。



伊藤自身も仕事を始めて四日目から顔や手足がむくみだした。


日中、世界が黄色く見え、


夜は自らの動悸がうるさくて眠れない日々が続いた。



過酷な工事が続く中で、


伊藤は、まるで別人のように、やせ細り、衰弱していった。


そして、構想から5年、


ようやく世界最大の富士山レーダーは完成する。



伊藤は、責任から解放され、ようやく下山することになった。


その伊藤が、下山する少し前、


自然と口からでた言葉。それが前段の言葉です。。。




 ”男は一生に一度でいいから

 
  子孫に自慢できるような仕事をすべきである”


  富士山こそ、その仕事だ


  富士山に気象レーダーの塔ができれば


  東海道沿線からでも見える 


  それを見る度に

  
  おい、あれは俺が作ったのだと言える。



  子供や孫にそう伝えることができる。”



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Last updated  2009.06.06 18:14:53
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