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カテゴリ:カフェ感
住友の男(前回の話) http://plaza.rakuten.co.jp/RiceballCafe/diary/200908160000/ 後編 住友の男。。。伊庭貞剛(いば・ていごう) 西欧諸国に追いつくため、 工業化を急いだ明治の日本、 いたるところで工業化のひずみが起こっていた。。。 明治時代、 日本には、大きな銅山が二つあった。 東の足尾銅山(群馬県)。。。 そして西の別子銅山(べっしどうざん/愛媛県)。 その別子銅山を所有している企業が。。。住友だった。 住友の別子銅山も、伊庭貞剛が着任する前までは、 足尾銅山と同様。。。 住友所有の新居浜(愛媛県)精錬所(せいれんじょ)から排出される 有害なけむりによって、 地元住民たちは健康を害され、怨嗟(えんさ)の声が沸き起こっていた。 また、 この時、新居浜の住友社内では派閥争いが激化していた。 派閥争いの一方のトップは、 住友分家で別子銅山支配人の大島供清、 もう一方の派閥トップは、 住友の総理代人(住友実質トップ)の広瀬宰平だった。 ちなみに、 広瀬宰平の甥(おい)が、伊庭貞剛だった。。。 煙害問題、 派閥争いにゆれる別子銅山へ 伊庭は大阪本店から派遣される。 伊庭の歓迎会の席上は殺気だった。 ”伊庭支配人様! 鉱山の宴会は大阪とは違うぜ。 ちと手荒いぜ。 ケガをしないで帰れたら幸運だ。テーブルがとぶぜ!(笑) ” 広瀬と敵対する派閥の男たちから、伊庭は乱暴な言葉をあびせられた。 伊庭が着任し、 だれもが粛清(しゅくせい)人事が行われると思ったからだった。 ところが、 予想された更迭も、人員整理もなかった。 伊庭は、新居浜の質素な家で寝起きし、 訪れる人たちに、わけへだてなく話をしていった。 伊庭が一度だけ大阪に戻った時がある。 誰もが、いよいよ粛清か!と。。。思った。。ら。。 伊庭が帰ってきたら。。。 なんと、歌謡曲の師匠をともなって戻ってきたのだった。 そして、またある時、 伊庭の妻の梅子が大阪からやってきた。 梅子は、 ”あなた 何をしているの”と聞くので 伊庭は、 ”拙者(せっしゃ)は、月に三回わらじを履いて鉱山に登り、 鉱石を掘り取るのを見てはよろこび、 また数千人の稼ぎ人が、汗あぶらを流して働くすがたを見ては気の毒に思い、 そして、 また鉱山を降りて精錬所をみては、うれしくなり、 また職人たちの汗を見ては気の毒に思い、 時として、職人と代わってやりたい。と思うくらいだよ。”と妻にこたえた。 妻の梅子は、話を聞き終わると。。。 。。。。。大口を開けたまま。。。絶句。。。 そして、ひとこと ”じつに馬鹿げた仕事ですね”と言った。 すると、 伊庭は妻に、 ”自分も馬鹿な仕事だと思っている。(笑)” ”でも、拙者は馬鹿な仕事が好きなんだよ”と笑いながら答えた。 不思議なことに、伊庭が鉱山に着任してから。。。 鉱山の空気が やわらいでいった。 やがて、住友本家から 派閥争いの処分通知が鉱山へもたらされた。 派閥争いの首謀者、住友分家の大島は、分家から除名。 そして、もう一方の派閥トップの広瀬宰平は辞任となった。 ケンカ両成敗だった。 伊庭は、じつにフェアな決断を下したのだった。 そして、住友最大の煙害問題に対しては、 解決のため、新居浜の精錬所を無人島の四阪島へ移転した。 当時、島を買い取る際に、住友が動いていると悟られないよう、 伊庭は、腹心の社員に命じて伊庭個人名義で島を買い取り精錬所を移転した。 そして、 銅山の開発で荒れるがままになっていた西赤石山系の山々に 伊庭は、 ”あいすまぬ” ”別子全山を旧のあおあおとした姿にして、 これを大自然にかえさねばならない”といって、 植林を施すなど、環境復元に心血を注いだ。 そして、それらの山林は、後に管理会社として住友林業が設立された。 晩年、伊庭は周囲の者たちに、 ”わたしの本当の事業といってよいのは、これだ!(植林事業)。”と語っている。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 田中正造の、 第15回帝国議会での演説をご紹介したい。 足尾銅山の鉱毒問題を取り上げたものだ。。。 ”関西地方の方々が多く鉱山の模範としてご覧になるは、 伊予の別子銅山で(中略) 足尾銅山とは、天と地ほどに差があるので、 実に何とも、たとえ比べ合いの ならぬほどの事情であります。(中略) 別子銅山の第一鉱業主は、住友 であります。 住友であるがゆえに、 社会の事理、人情を知っておる者で、 己(おの)が、金さえ儲けさえすれば、それでよろしい。という、 ものだというような、そういう間違いの考えを持たない。”。。。。 あの、 義の政治家、田中正造が手放しで称賛するほど、 住友の別子銅山への姿勢(環境への配慮)は見事なものだった。 伊庭貞剛は、 のちに別子銅山の改革が認められ、 54歳の若さで住友総理事(トップ)となる。 そして、わずか4年で早々と身を引く。 周囲のものたちが、 引退は早い!、と伊庭を止めようとすると、 伊庭は、 ”事業の進歩と発展に もっとも害をなすものは、 青年の過失ではない。 老人の跋扈(ばっこ/はびこる)だ。”と話したそうだ。 伊庭を知る部下の話を紹介したい。 ”伊庭さんの仕事ぶりは緻密でありましたが、部下に対する態度は、 やわらかく、じつに長者の風格がありました。 ”重役が命がけの判を押すのは在職中に一度か二度あるくらいのものだ。”といって、 ほとんど書類を見ずに判を押しておりました。。。 伊庭の孫の菅沼綾子さんの話もおもしろい。 ”おじいちゃんは、春、新居浜からサワラが届くと、 待ちかねたように”なれ寿司”を自分で作って、 うれしそうにお客様にふるまうんです。 そして三時のおやつを、いつも楽しみにしておりました。 あんがいダジャレもよく言っておりました。 80歳で亡くなる二日前にも、 好物の水蜜桃の缶詰がきれて、やむなくリンゴにすると、 ニコニコ食べた後、 ”これがリンゴ(臨機)応変というものじゃなぁ(笑)”とほほえんでおりました。 完 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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