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カテゴリ:三菱自動車工業
日本で、 最初に電気自動車を一般販売した会社をご存じだろうか? トヨタでも、日産でも、ホンダでもない。 三菱自動車工業です。 昨年の2009年6月、 三菱自動車は世界に先駆けて、 電気自動車” iMiEV(アイミーブ) ”を一般販売すると発表した。 そして、7月から地方自治体向けに電気自動車の販売を開始した。 現在、 私の住む、山形でも時々、三菱のアイミーブとすれ違うことがある。 その時は、 おもわず見とれてしまい、事故を起こしそうになる♪ その三菱自動車も。。。 いまから10年前。。。 西暦2000年には会社倒産の危機を迎えていた。 三菱自動車は、リコール隠しが発覚し、 存亡の危機に立たされていた。 そして、 2002年、三菱自動車は重大な欠陥あったにもかかわらず、 問題を隠し、結果、 三菱の製造した大型トレーラーから巨大なタイヤが外れ、 母子3人が死傷した。 国土交通省は、三菱の隠ぺい体質の悪質さに怒り、 三菱ふそう・三菱自動車を神奈川県警察本部に告発した! 当時、三菱の提携先だった、独ダイムラークライスラー(当時)は、 すぐに三菱との資本提携を解除した。 国土交通省は、三菱自動車に対して、 車両の入札における指名を停止した。 警察庁も 車両の入札における三菱の指名を停止した。 そして日本中のほとんどの都道府県で三菱車は購入禁止となってしまった。 三菱自動車は、倒産寸前まで追い込まれた。 この危機に対して、 三菱の御三家、 東京三菱銀行(当時)・三菱重工・三菱商事のグループ3社は、 5000億円の増資支援を決定し全力で三菱自動車を支えることにした。 そして再建のために、 ひとりの男が三菱自動車に役員として送り込まれた。 その男とは、 三菱商事の益子修(ますこおさむ/現在の社長)だった。 益子が送り込まれた、三菱自動車は、当時、年商2兆円。 最低でも月に2000億円の金の出入りがある。 なのに、当時、最悪の時には残高が4億円しかなく、 いつショートしてもおかしくなかった。 益子は、組織の立て直し以前に、資金繰りに追われる毎日だった。 綱渡りの日々が続くなか、 益子は、 2005年1月、三菱重工の西岡喬(にしおかたかし)会長から呼び出された。 益子は、また怒られるのだろうと想定し西岡の待つ部屋へ。。。 すると、三菱重工の西岡は、 あいさつもなく、単刀直入に益子に言った。 ”わたしが(三菱自動車の)会長をやる 君が社長をやれ ” ”ノー ” も ”考えさせてくれ”もダメだ。 と、言い残し部屋を出て行ってしまった。 益子が社長に就任し、 工場を訪れると。。。 益子は社員から質問された。 ”社長は、日産のカルロス・ゴーンのようになれますか?” 益子が社長に就任する前の三菱自動車は、 9年間で7人の社長が交代する異常な状況だった。 益子はおもった。 ”混乱が、もう9年も続いている。 従業員は不祥事や世間的につらい思いをしている。 せめて彼らとその家族を守り自信を与えなければいけない。” 益子は、 この時期つらい決断をしている。 三菱自動車の旧経営陣7人に対し経営責任を追求し 退職金の全額返還を求めて13億円の損害賠償請求を提訴したのだった。 お世話になった先輩方に退職金の全額返金を求める益子の気持ちは、 想像に難くない。。。 益子の考え抜いた末の、過去へのけじめのつけ方だった。 上の者が厳しい態度でのぞむことで、 社外にも、社内にも、益子の強い意志を示したのだった。 ”これからの三菱は嘘はつかない。” 余談だが、 当時の三菱自動車は、 現在の日本航空の企業年金減額どころの話ではなかった。 今回、 国土交通省の担当者から、日本航空の債権放棄を迫られた 三菱東京UFJ銀行の担当者の心中には忸怩たる思いが去来したことだろう。。。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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