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一つの国でありながら スコットランド、ウェールズ、北アイルランド、イングランド という4つの州というか、自称「国」でなりたっていて スコットランドとイングランドは 侵略の歴史で、いまでも仲が悪い 「まったくね~」と他人事で 「ワールドカップではイングランドと戦うすべての国を 我々は応援しますっ」なんて書いてあるスコットランドのT-シャツを 楽しんでいたわけですが 日本にもあった!歴史的対立の残像がぁぁ~ 会津では 「温泉で『山口から来たんだよ』というと夕ご飯が出なかった」 とか 「山口からといったら タクシーから降ろされた」 とか スコットランドで聞いたことがあるような話が 嘘かほんとか まことしやかに語られているらしい そりゃ~ 私と宿さんの「歴史心」をゆさぶるではあ~りませんか 戊辰戦争、白虎隊 これは幕末史で必ず勉強することですが、 まず私が学んだことは 歴史として私たちが学ぶもの それは「勝者の記録」であるということ 確かにね、明治政府に限らず、記録として残されていくのは 勝ったものが指示して生まれる ちょっとだけ(時に、大幅に)バイアスのかかった歴史なのですね 近代史では かなり史料もあり 「検証」することが可能となりましたが、ちょっと前までは それもなかなか難しいことでした たとえば、ですよ。 幕末、あの最後の将軍、徳川慶喜 彼に泣きつかれて 真面目な真面目な会津藩主「松平容保(かたもりさんと呼びます)」 誰もがやりたくなかった「京都守護職」を引き受けます 時の京都 今、「龍馬伝」でも伺えるように 暗殺と暴行が日常茶飯、それはそれは こわ~い場所 藩内には反対の声もあったもののもともと「藩よりも国に忠誠をつくす」という藩訓があったほどの会津には 他に道がなかったのかもしれません あの新撰組は 一応会津の京都守護職の配下になります でも 守らなくてはいけない「徳川慶喜」はなさけなや 大政奉還した時でさえ「新政府では私が総理」と思っていたそうで それがかなわぬと知るや「鳥羽伏見の戦い」に後先かまわず突入し しかも その形勢が悪くなると 家来を戦場に残したまま 勝手に江戸に逃げ帰るという始末 薩摩、長州は関ヶ原以来の怨念を晴らそうと 「ぜ~ったいに慶喜の首をとるぞ、おぉぉぉ~」と 江戸城に攻め寄せるも 勝海舟の手練手管に首を断念 篤姫では 篤姫の手紙を勝海舟が届け、号泣した西郷隆盛が 江戸城を攻めるのをやめたことになりましたが どうも 勝海舟はイギリス公使に直談判し 公使が長州に対して 「白旗を揚げているものを 攻め落とすというのは国際法に反する!」と 叱り飛ばしたから(らしい) まあともかく 江戸城も無血開城となり 慶喜なんて首を取られるどころか それなりの石ももらって隠居 なのになのに 首を取れなかった薩摩、長州のうっぷんは 何故か京都守護職であった会津に向かいます まだ若かった天皇から 会津は「朝敵」という密勅がくだったというのは よく教科書で学ぶこと でも今ではこれが「偽勅」であることが判明しているのだそうです 勅命が間違いだらけだったこと 当時まだ15歳であった天皇がこれを書くはずがないということ などなど 結局 薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允 そして公家の岩倉具視 この3人による秘策であったといわれているそうな 準備周到に用意された錦の御旗(官軍のシンボル)の威力は大きく 周辺の藩も次々となびき 会津の味方は落ち延びてきた新撰組と東北諸藩 しかし巨大な、そして最新軍備のととのった官軍には勝てず 悲しいかな、あの白虎隊の悲劇が起きるのです はぁ~~~~~~ つづく・・つづく・・つづく・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.05.09 12:20:22
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