あれから5ヶ月ほど経ちました。 ここ茨城では、今なお毎日のように余震が続いています。 この世の終わりかと思うような、初めて経験する 強い揺れだったこと。 数分おきに起きる、震度5クラスの余震が数日続いたこと。 通信は途絶え家族の安否もわからぬまま夜を迎え、 ライフラインの途絶した暗闇のなかで、 地の底から響く轟音をともなう余震の恐怖に耐えたこと。 静かで、地響きの音しかしなくて。 光と音のない、あんな真っ暗な夜を経験したことなかった。 あの日のことを綴っておかなきゃと思うけれど、思い出しただけで 心がすくんでしまいます。 実は、あの地震の前日に、父が息を引き取りました。 闘病の末のことでした。 地震が起きたのは、病院から自宅へ連れて帰ってきていたとき。 横たわる父を置いて逃げることができずに、 父の体にしがみつき、『誰かお父さんを助けて!』と半狂乱で 子どものように泣きじゃくることしかできませんでした。 新聞のお悔やみ欄も震災の記事に変わってしまい、 電話など通信手段がないので親戚・知人にお葬式の連絡を することもできない。 電気がいつ復旧するかわからないので、火葬も延期になってしまって。。。 ちゃんと父を送り出してあげられるだろうか。 ただでさえ亡くなった悲しみでいっぱいなのに、 不安と心細さで胸が張り裂けそうでした。 こんなピンチを、よく家族で乗り越えられたと思う。 あの日をずっと忘れない。心に深く刻まれて、忘れられない。 あのとき私たちは被災者でした。 そして、 自分以上に、もっともっと大変な目に遭われた方は大勢いる。 それがものすごくショックです。 本震の数日後に市役所に行き、水の配給を受けようとしたときのこと。 ロビーののテレビに巨大津波のニュース映像が映されていました。 そこではじめて、なにが起きたのか被害の全容を知りました。 大きな余震が続いていたときで、日本列島のおよそ半分に 津波警報が出され、画面の端に出ていた津波の範囲を示す日本地図は、 東日本の海岸線が赤く染まっていました。 ・・・。 全身が震えて、涙が止まりませんでした。 父の葬儀のときに、お坊さんから東北でボランティア活動を されたというお話をうかがいました。 『家族を見送れるあなたたちは幸せです』 この言葉が耳に残ります。 そう思って、前向きに生きていかなきゃ。 本当に本当に、今回の震災で被災された皆さんには 心からお見舞い申し上げます。
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