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カテゴリ:家族
お花いっぱいの無宗派でのお別れ会でした。 お花が菊じゃないのが良かったです。 集まったのは親族5人、60年の付き合いの近所の人達4人でした 綺麗にお化粧して頂き、血色良く、眠ってるように見えました。 2020年12月に倒れて、近所の方に助けられて救急車で運ばれましたが すでに認知症で病院に入院中に立てない歩けないトイレも理解できない介護3まで悪くなってしまい 自宅では過ごせない状態でした。 私が実家を出た時は 杖、メガネ、補聴器を忘れるほど元気で、介護要支援1になってしまい、家事支援やデイケアもお金がかかる状態で、私が邪魔! 私の食事運動指導で糖尿病も担当医がびっくりするほど改善、血液検査の数値も弟よりもいい状態でした。筋肉を保持して体重を減らしたのも数字をよくすることになりました。 「50キロになったら災害時,おふくろをおぶって逃げてあげるよ」と 長男(弟)が言ったので、母は真に受けて10キロ痩せ目標を達成しました。 昭和の東京五輪時に生まれた長男と50年後再び 東京五輪をのびのびと楽しみたかったようです。 でもコロナで東京五輪は伸び、弟は地方仕事で実家を離れ一人に・・・ でも 母一人になったことで実家は近所のお茶のみサロンになってました。 共同トイレ台所の女子大生下宿が10年で駄目になった時、 退屈してた母に手芸教室でも開いたらと私は言ったが 私の言うことは聞かない母。 母に結婚するか実家を出ろと言われたので 実家を出て楽しい一人暮らしをしてたのに、私を嫁に出すことに躍起になってしまった。でも思った結婚ではなかったので、恥になる離婚を今度は反対し続けた。 近所の目が気になる母であった・・・が 老後のサロンは楽しかったようだ。母は編み物、縫い物はプロだが教えるのは下手だった。 別にいいのだ、賑やかにおしゃベリを楽しんで私の方に気が回らなければ良かったのです。 日常食生活が乱れたのかその後 目の周りに帯状疱疹ができて 痛い思いをずっとしたようだし、認知症が進んでしまってた。 病院から施設に移動の時に すでに弟の事がわからなくなっていた。その後妹の事も・・・でも糖尿病の合併症で帯状疱疹以外では痛い思いをしないで済んだようでそれは、良かった・・・ 母が究極の我儘悪意を言うのは 私だけ・・・知らない人には可愛い母です。 認知になってもそれは変わらずで、施設でも問題なし。 4人の近所の人が暑い中来てくださいましたが最後まで朗らかな良い母の印象でした。だから近所の人たちには、私は母を放棄した悪い娘です。 母は花嫁修業でお花お茶お琴・・・お手伝いのいる結婚生活だと思ってたので 家事の修業なし・・・まさか新居が六畳一間の離れ生活で井戸もなし、本家から水を運ぶ生活で 失望だったのかも・・・北陸の実家は建て替えで3DKの2階屋を庭に急遽建てて 本家を作り直すような家で、納屋が本家よりも大きい~ 出戻りの私をただで使えるお手伝いにすることで、自分の結婚生活を望む形に 終わらせたかったのかもしれないが・・・ 私は 母の介護だけは 姉妹弟、平等にしたかった・・・ それはしないことで済んで、願いが叶ったのだと思いました。 式場は多摩動物園の近く・・・暑い、熱風でした。 生前両親にとって 長女は初孫で みんなでこの動物園に行きました。 最後のお別れは親族だけ・・・神奈川県に近い斎場に移動でした。 父の時は、実家から歩けるところで通夜、告別式で最後だけ隣町に近いところでしたが 今回は空いてるところがなくて、それでも1日で済むところが見つかって 正直助かりました。 お世話になった近所の人たちには、それぞれに1万円のお車代・・・ 私は、弟が施設に入れたら 実家は更地にすると言ってたので どうなってるのか気になってました。 施設は特養で個室・・・そこで認知症で老衰死でした。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 自分らしさランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.10.26 08:15:06
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