『我欲』
『与えられたことを拒むこれ欲なり』四句御箴言の一つです。以前、謙虚という言葉について、本当の謙虚とは何かを考える機会がありました。そう、そういえば小林正観さんもお金についてその著書で書いておられる一節で通貨は通過だとおっしゃっていました。少し予定が変わってきましたが、どんなことだったか書いてみます。小林正観さんは、『頼まれ事こそが本質だ』とご自身で結論付けているらしいのですが、その頼まれ事をやっていくと、3つに1つは有料になるらしいのです。ただひたすら頼まれ事をやっていくと3つに1つは有料、さらに、その有料のもののうち3つに1つは「ちょっと多め」の報酬をいただくことがあると。。。“有料”の場合も、“多めの報酬”も、「私はそんなつもりでやったのではありません」と辞退する人がいるらしいのですが、小林正観さんはそういう人を傲慢だとおっしゃっています。「そういうのを謙虚だと言うのではないですか」との質問が出そうなのですが、「ありがとうございます。受け取らせていただきます」と受け取るのこそ謙虚と言うというのです。ここまで聴いてもすごいな。。。と思うのですが、もっとすごいと思ったのはその理由でした。。。「受け取れない」と辞退するのは、その報酬を「自分のもの」と思っているからで、「傲慢」だということ。「私」に来る報酬は「私」のものではなく、「私」を通過するだけのもの。。。私を通過するだけの通貨とおっしゃっています。。。うーむでした。。。先の四句御箴言からすれば、まさしくそれは欲にあたるのですね。。。そして今日私が本当に書きたかったこと、、、それは、与えられた私の命についてです。。。大変有難いことに、私のブログに訪れていただく方の中には、コメントの中や私書箱へ「リンリン竹ちゃんさん、生きるとは何ぞや」、「生かされるとは何ぞや」という質問をいただくことがあります。。。残念ながら私は宗教家でもないし哲学家でもないので自身の言葉では的確な答えが見出せていません。。。そんな状況で、今日のテーマなのですが、1つヒントになるものを論語の中に見つけました。『論語』に出てくる話で、孔子が弟子の冉求を諭されたという言葉です。冉求は頭のいい青年でしたが、繊細すぎて、自信がなく、引っ込み思案でした。だから仕官の話があっても、>「いいえ私はそんな器ではないんです。買いかぶらないでください。とても自信がありません」と、しり込みしてしまい、そのため、みすみすチャンスを失ってしまうことがあったといいます。 ある日、孔子が冉求に話かけられました。>「私は人間というものは、一人ひとりが大宇宙の本質の結晶だと思う。それぞれ、大いなる存在が地上に結晶化した存在なのだ。 そして、天はその一人ひとりに、七十年、八十年の人生をかけて、何がしかの形を作り上げさせようとしていらっしゃるのだ。お前についても、天はそういうプログラムを持っていらっしゃるにも関わらず、お前が『私には自信がありません、私は駄目なんです』と言って、殻の中に閉じこもってしまえば、天はみすみすチャンスを失ってしまうことになるじゃないか。 だから、むしろ、自分の良さも悪さも含めて、すべて天に預けろ。天はお前という素材を生かして見事なことをなさるはずだ。そこからお前の人生が開けてくるんだ。」この話を聞いた時に、思い出したのが『与えられたことを拒むこれ欲なり』という四句御箴言でした。そしてここでもうひとつ思い出した言葉がありました。それは昨年、インドへの佛跡巡礼の旅にご一緒させていただいた世界遺産・薬師寺の大谷和尚が私におっしゃった言葉です。『人が、ガタッとなっちゃうのは決心が足りないから、そしてその決心がなぜ足りないかは、与えられたものに対して喜びが足りないからだよ。。。』正に、与えられたことに喜びが足りない=拒む に 相通じるのではないでしょうか?「人生=命」もその捉え方ひとつ間違えると、謙虚のつもりが実は謙虚ではなく、知らず知らずに我欲になってしまっていることもあるのではないかと考えました。天に生かされ、与えられた命=自分を生かすという人生の捉え方ができた時、本当の意味での『謙虚さ』が身についてくるのでしょうか。。。私もそこを目指したいと思います。。。感謝