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カテゴリ:雑感
昨年夏、このブログでアンドリュー・ ロー氏の著作「適応的市場仮説」をご紹介し、その中でヒトは合理的な選択を行うためには感情が必要、という神経科学からもたらされた深淵なる真理についての引用が亭主に刺さったことを書きました。というのも、これは「恐れや欲(という感情)がなければ、私たちの合理的な脳はひたすら正しい結論に向かい、行動バイアスは起きないのではないか」という我々のナイーブな推測に全く反するものだからです。
その「深淵なる真理」の典拠として挙げられたのが表題の著作。亭主もその後文庫版の邦訳(筑摩書房、2010)を手に入れて読む機会があり、大いに触発されました。 著者であるアントニオ・R・ダマシオ(1944〜)はポルトガル、リスボン出身で米国の神経科学者。邦訳の著者紹介によると、「Prince of Asturias Awards他多くの賞を授与され、世界中で最も読まれ、活躍している神経学者」とあり、本著作(原書は1994年刊、2005年改訂)も30カ国語で翻訳されたロングセラーだそうです。 (アストゥリアス皇太子賞とは、もちろんスペイン王太子にちなんだ賞。ドメニコ・スカルラッティがスペインで仕えたマリア・バルバラの夫、フェルナンド[後にフェルナンド6世として即位]も当初アストゥリアス皇太子と呼ばれていたことを思い起こさせます。) 本書の主題を大雑把に言えば、ヒトの精神活動に大きな比重を占める「情動・感情」の働きを、脳という臓器との関係で神経科学的に解明しようする試みです。なので、神経科学の同業者から見れば、例えば情動・感情に関わる神経活動が脳のどの部位に局在しているか、それが脳の他の部分の働きととどのように関係しているのか、といった問いとそれへの答え(の妥当性)などが関心の対象になると思われます。実際、本書の第1部に出てくる話は、そのような情動・感情に関わる脳の部位を偶然の事故で損傷し、その性格が事故前とは激変した人物についての詳細な報告・解説がなされています。 ところが、このような探求の過程で著者がたどり着いたのは、神経科学の関心をはるかに超えた「情動・感情」と「身体の状態」との連関についての描像でした。 本書を読み進むとわかってくることとして、著者はそもそも「情動」と「感情」を区別しており、前者を身体の状態を直接的に反映する脳の(無意識的な?)状態と考えているように見えます。これに対し、「感情」はより自覚的な状態で、脳のもう一つの重要な働きである論理的思考(〜理性)と絡み合う一方で、「情動」から意識に上った心的状態でもあります。つまり「身体→情動→感情→理性」という神経回路を通して、身体は我々の理性にも深く関わっている、というわけです。(そして、これこそはヒトが進化の過程で身につけたシステムであり、行動経済学における行動バイアスの原因でもあります。) このような読み解きが正しいとすると、本書のタイトルの意味も自ずと明らかになります。すなわち、デカルトの有名な哲学的論考「我思う、ゆえに我あり」から導かれる心身二元論、つまり心と身体は独立に存在するという命題に対し、著者は明確にノーを突きつけているわけです。(最終章「理性のための情感(パッション)」を読む限り、亭主の読みは間違っていないようです。) デカルトの心身二元論は、近年の脳科学の分野で行われている「心=ソフトウェア」、「脳=ハードウェア」という対応づけや、それに基づいて「心」を脳や身体から分離して理解できるとする考え方そのものでもあります。 この考え方は、コンピューター科学やそれに依拠した認識論との相性も抜群であることから、依然として広く受け入れられており、例えば「近い将来には、死ぬ前に『心』をソフトウェアのように吸い上げて保存し、他人の脳に『ダウンロード』することで、『あなた』という自我は永遠に生きられるようになる」といったヨタ話がまことしやかに語られる背景にもなっています。 一方で、ヒトの脳を学習によって再現しようとする人工知能(AI)研究の最前線では、やはり外界との接点としての身体性が重要であるという認識が広まりつつあるようです。 ダマシオの「心と脳=身体は不可分」という主張は、「心=ソフトウェア」、「脳=ハードウェア」という図式に対する説得力あるアンチテーゼとして亭主に深い共感を呼び起こしただけでなく、人生における「感情」の重要性を再認識させてくれました。なぜなら、行動の「動機」とはまさに「感情」そのものだからです。「この世で情熱なしに成し得たことに、大した価値はない」という箴言(ヘーゲル?エマーソン?)の真意もこの辺にあるのでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 30, 2022 10:04:56 PM
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