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カテゴリ:雑感
この月初め、亭主は「暇つぶし」に訪れた書店で偶然表題の本を手にし、我が人生でこれまでにないほど大きな衝撃を受けました。序章の数ページを読むや即購入、帰宅後に読み始めたところ止まらなくなり、読書のあいだ中、青春時代に抱いた「人生に対する疑問」、さまざまな迷いや悩みが文字通り走馬灯のように脳髄を駆け巡りました。研究渡世についてこのかた数十年来、日々の忙しさにかまけて忘れたふりをしていたそれらが一気に目の前に立ち表れ、ちょうど定年という節目を迎えた亭主に「あの頃」の感覚をまざまざと蘇らせてくれました。
本書の内容は、「暇と退屈」という一見してパッとしないタイトルや、平易な語り口から想像されるものとは真逆で、目眩がするほど深く、広いものがあります。しかも、それが昨今の資本主義経済の機能不全、戦争やテロの原因とも根本のところでつながる、という意味で、現下のウクライナでの惨禍やパンデミックという状況とも完璧にシンクロして迫って来ます。 多少ネタバラシにはなりますが、「『好きなこと』とは何か?」と題された序章から、本書の問いかけをいくつか拾ってみましょう。 著者は、まず英国の哲学者バートランド・ラッセルの著作、「幸福論」の中の言説、「20世紀初頭のヨーロッパでは、既に多くのことが成し遂げられ、これから若者たちが苦労してつくり上げなければならない新世界などはもはや存在しないように思われるので、これからの若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である」を紹介し、この議論が何かおかしいのではないか、と問います。「多くの成し遂げられたこと」が人類の豊かさを目指してのものだったとすると、それが実現したにもかかわらず、なぜその豊かさを喜べないのか?人類の幸福を目指していたのに、それが実現すると人が不幸になるとはどういうことなのか? そこで著者は、不幸の原因としての「豊かさ」について考察し、それが本書のお題である「暇と退屈」、余暇として生み出される時間の過ごし方に関係していることを明らかにします。 さらに、「豊かな社会」、すなわち余裕のある社会において、その余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われていると思われる一方で、その「好きなこと」は、現代消費社会においては文化産業から示される選択肢から選んでいるだけ、つまり自分が本当に「好きなこと」ではない(余暇が搾取されている)のではないか、と問います。 さらに、著者はアレンカ・ジュパンチッチという哲学者の言葉を引用しながら、もう一つの重要な問いを発します。 「人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間を羨ましく思うようになる。例えば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。…だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。 …ジュバンチッチは鋭い。だが、私たちは「暇と退屈の倫理学」の観点から、もう一つの要素をここに付け加えることができるだろう。大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。 生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きている時、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。『暇と退屈の倫理学』は、この羨望にも答えなければならない。」 この一節を読んで、亭主はすぐに昨年の報道、自ら志願してウクライナに渡り、ロシアとの戦闘で亡くなったという日本人の青年を思い出しました。亭主は、このような行動が間違っていると思いつつ、心情的には理解できなくもないと感じてしまいましたが、本書でまさに図星を突かれた形です。そして、これがどう間違っているのかを明確にすること、これこそはまさに「倫理学」の問題、というわけです。 序章以下、本書は以下のような章立てになっています。 第1章 暇と退屈の原理論 — ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか? 第2章 暇と退屈の系譜学 — 人間はいつから退屈しているのか? 第3章 暇と退屈の経済史 — なぜ”ひまじん”が尊敬されてきたのか? 第4章 暇と退屈の疎外論 — 贅沢とは何か? 第5章 暇と退屈の哲学 — そもそも退屈とは何か? 第6章 暇と退屈の人間学 — トカゲの世界をのぞくことは可能か? 第7章 暇と退屈の倫理学 — 決断することは人間の証しか? 結論 どの章も大変面白く、紹介し出すとキリがないのですが、おそらく本書の白眉は第5章、著者が「退屈論の最高峰」と呼ぶマルティン・ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」という著作をやさしい言葉で読み解いていく部分でしょう。これを読むと、「暇」と「退屈」の違い、さらには退屈の中でももっとも厄介な「気晴らしでは逃れられない退屈」に向き合うことになるとともに、それに対して発せられたハイデッガーの結語(第7章の副題にもなっている)がヒトラーという独裁者の出現とどう関わっていたか、(少なくとも亭主には)合点が行った気がしました。 翻って、亭主の最大の関心事でもある音楽について、この文脈で考え直してみるのは面白いテーマだと思えます。我々は音楽に何を求めているのか?単なる気晴らし?いや、そもそも音楽は気晴らしになっているのか?答えは簡単ではなさそう。 ちなみに、本書の巻末には、著者自身による60ページ近くの注が付けられています。今度はこれらを参照しながら、近いうちにじっくり読み直そうと思っているところです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 22, 2023 10:03:39 PM
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