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カテゴリ:雑感
先日、テレビのチャンネルをバラバラと変えていたところ、「英雄たちの選択」という番組で作家・江戸川乱歩を取り上げているのが目に止まり、そのまま途中から眺めいることに。
江戸川乱歩といえば、亭主も子供時代に「怪人二十面相」など子供向けの探偵小説をかじったことがありますが、シャーロック・ホームズものや怪盗ルパンもの(子供向けに翻案された版)など他の探偵小説の方が印象が強く、あまり記憶に残っていません。 番組によると、乱歩は大ウケした探偵小説のみならず、大正時代から昭和初期にかけての自由主義的な雰囲気(「大正デモクラシー」)の下でエロ・グロ志向の作家として活躍したものの、世間が急速に右傾化した昭和初期から太平洋戦争末まで作品が徐々に発禁処分になるなどして沈黙を余儀なくされます。そして敗戦後、ころっと手のひらを返したように価値体系が180度転換した世相の中、乱歩のもとに出版社から新たな本格探偵小説の執筆依頼が来たものの、彼がそれを断った、という選択について、司会の磯田道史氏やゲスト数人が議論していました。 そもそも戦時中に作家としての活動を官憲に弾圧された乱歩にしてみれば、あの戦争に対する何の反省もないかの如く出版界から以前のような探偵小説を書いてくれ、と言われてカチンと来たであろうことは容易に想像できるというもの。 その点はさておき、議論の中で亭主がハッとさせられたのが、探偵小説とは反権威主義の文学だというコメントです。 そう言われてみると、誰もが知る探偵小説の元祖、シャーロック・ホームズの連作では、一民間人であるホームズが、「その筋の専門家(権威)」であるはずの警察を差し置いて難事件を次々と解決していきます。その昔亭主が愛読した「ブラウン神父」もの(K.G.チェスタトン)など、他の多くの探偵小説も大なり小なり同じような作りになっていると思われます。 また、警察側を主人公にした場合でも、名推理で事件を解決する刑事の役どころは出世ラインから外れた変わり者、といった反エリート的な設定になっていることが定番のように思えます。怪人二十面相や怪盗ルパンなど、「悪役」側がヒーローであればなおさらで、彼らを取り締まる側の無能ぶりを嘲笑うかのような作りは文字通り反権威主義的だと言えるでしょう。読者が快感を覚えるのも、権威筋の鼻を明かす結末がある種のカタルシスをもたらすからです。 このような視点から眺めれば、戦前・戦中の思想統制下で探偵小説やその作家達が弾圧された理由もよく分かります。前述の番組でも「探偵小説を何の気兼ねもなく楽しむことができるのはいい世の中である証拠」であり、そのような世を保つことこそが枢要である、という意見に大いに納得させられました。 思うに、このジャンルの呼称である探偵小説、推理小説、あるいはミステリという用語は、人間観察と物的証拠に基づく科学的推理、という一面のみが強調されて、上記のような重要な本質が見落とされてしまう、あるいは(特にこのジャンルに馴染みがない)「純文学」の読者などから一段下に見られるといった偏見を誘うようで、あまり好ましくないように感じられます。 一方で、「反権威主義」は、それ自体が目的化してしまうと、それに対する批判を認めないという意味で大元の権威主義と同列になってしまいます。「反対のための反対」では何の意味もありません。重要なのは「健全な懐疑」の精神であり、これは名探偵のみならず、誰もが最も大事にしなければならない精神でしょう。インターネット上にフェイク情報が溢れる世界を生きる現代人にとって「健全な懐疑」はまさに死活的に重要になっています。(名探偵の生き方はそのよいロールモデルだと思われます。) ちなみに、音楽史・音楽学の分野で、亭主がご執心のドメニコ・スカルラッティの研究においてまさにホームズのような名推理を続々と繰り出したのが、ジョエル・シェヴェロフ先生。当時スカルラッティ研究の権威と目されていたラルフ・カークパトリックの見解を彼が次から次にひっくり返していく様はまさに壮観です。(ただし、このことでカークパトリックからは相当睨まれたようで、狭い業界内でかなり干されたフシもありますが…)機会があれば、彼の仕事についてご紹介したいと密かに願っているところです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 26, 2023 09:58:53 PM
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