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カテゴリ:雑感
いつのまにやら今年も最後の日となりました。亭主の脳内では歳と共にワーキングメモリーが減少しているらしく、この頃は出来事は覚えていてもそれのタイミングがさっぱり思い出せないことがしばしばです。このブログを書いている理由の一つも、そのような記憶の補助装置としてのもの。その時々に考えたこと・感じたことを都度書き留めておくことで、後から何度も振り出しに戻るような無駄な時間を節約できるだろう、と思ってのことです。(その意味ではあくまで私的なメモですが、公開することで読者にとっても時間の節約=それによって思考がより遠くまで行けるようになれば、と祈念するところでもあります。)
ところで、そうやって今年一年のブログのタイトルを眺めていたところ、國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」に衝撃を受けたのが年の初めの1月だったことを思い出しました。それ以来、彼の書く物が気になっていた亭主、先月にふらっと立ち寄った本屋の新書コーナーに積んであった新刊「スピノザ」(岩波新書、2022年)が目に留まり、思わず手に取ることに。今月になってページを繰り始めたところ止まらなくなり、年末年始の休みを利用して一気に読了しました。 スピノザ(1632-1677)の代表作といえば「エチカ」。題名はラテン語で「倫理学」(英語のethics)を意味します。亭主は岩波新書の表題を見て、そういえば昔「100分de名著」という番組で「エチカ」が取り上げられた際に、國分さんが講師役として登場していたことを思い出しました。(番組も録画して見た記憶はありましたが、残念ながら例によって中身はすっかり忘却の彼方です。) 「エチカ」は、その構成が(古代ギリシャの哲学者ユークリッドに倣って)公理・定理とその証明といった形を取り、しかもラテン語(今や死語)で書かれていることから難解で鳴らしている哲学書です。もちろん、哲学書が難解であるのは「エチカ」に限りませんが、面白いことにこの数年、巷ではこのような哲学書や関連の堅い著作が話題になっているように見えます。おそらくは、国内経済の低迷や外国で相次ぐ戦乱という先の見えない状況で、何か未来への手がかりはないものかと古の知恵者への関心が高まっている、と言うことかもしれません。 さて、「倫理」は我々の行動を律する規範・原理に関わる点で、哲学の対象の中でも最も実践的なテーマでもあります。その意味で、スピノザの代表作が「倫理学」であること自体に興味をそそられます。國分さんは著作中でそれがスピノザの他の著作とどのような関係にあるか、またこれらの著作が書かれた当時の時代背景(17世紀ヨーロッパの政治状況)なども踏まえながら「エチカ」の解題を試みています。 亭主が「スピノザ」、特にその「エチカ」に関する部分を読み進みながら繰り返し思い出したのが「人は理屈で納得し、感情で行動する」というリチャード・ニクソンの箴言でした。 つまり、スピノザが(哲学の言葉を用いて)語っていることも、端的には「人の行動を支配しているのは感情である」と言い換えられるだろう、というのが亭主の見立てです。 もちろん、「エチカ」は極めて精巧に作られた論理の体系からできており、専門家である國分さんの解題も、スピノザの用語解説から始まって実に注意深く彼の思考を辿っています。哲学でも「神は細部に宿る」は同じで、雑な「まとめ」は禁物とも思われますが、亭主なりにキモの部分を取り出すと以下のようになります。 まず、スピノザが倫理学の中心課題である「善」と「悪」をどう考え、どう定義しているかについては、「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」、つまりすべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はないと言います。これは19世紀米国に現れたプラグマティズム(実用主義、道具主義)に似ています。 とはいえ問題はここからで、上記の視点から善悪を再定義すると、「その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だととらえられる」となります。(スピノザの用語ではこの活動能力(の増大)を「コナトゥス」と表現し、國分さんはこれを「力」と訳しています。) そこで「活動能力を増大させる」を「人の行動を促す」と読み替えれば、そのような行動を促す感情こそが善とも取れます。 スピノザのこの定義、一見すると亭主共が「倫理」と言われて漠然と想像する社会のルール(法律など)、あるいは宗教的権威の下に与えられる禁止事項(「モーゼの十戒」など)とはかけ離れたものです。が、少し考えればそれが人間の行動のリアルをよく捉えていると思わせられます。 例えば、現在起きているウクライナやパレスチナでの戦争(=軍事「行動」)を考えてみると、当事者は両方とも声高にそれぞれの「正義」を言い募ります。 これは、「正義とはすなわち善」といった常識的な倫理観で見ると矛盾そのものに見えます。なぜなら、互いに主張する「正義」について、その当否を判断するための絶対的な基準など見当たらないからです(なので解決策も見えない)。 ところが冷静に見れば、実際そこで渦巻いているのは正義という「感情」(裏にあるのは(相互に)不正義を働いた者への怒りや憎悪という感情)です。 これをしてスピノザ流に言えば、「『正義』などというものはない。『正義という感情』があるだけだ」というわけです。 ちなみに「感情」とは行動経済学で言うところの「速い思考」で、これが脳に組み込まれた「生存のための仕掛け」であることを進化生物学や脳科学は明らかにしつつあります。(実際、ウクライナやパレスチナでも、当事者双方が自らの「生存をかけて」戦っていると主張しています。) ところで、以上のように考えると、「エチカ」で語られる「意識」、あるいは「意志」や「理性」の働きが、おおよそ行動経済学の「遅い思考」に対応しているようにも見えます。そして遅い思考がなすべきことは、自身だけでなく他者の活動能力も増大させるように考え行動すること、となるでしょう。 さて、「エチカ」には上述のような感情のぶつかり合いを解決するような知恵=遅い思考がどこかに書かれているかもしれない…そう願いつつ、ゆく年を送りたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 1, 2024 09:43:09 AM
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