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カテゴリ:音楽
先週の「古楽の楽しみ」、初日および二日目のテーマはバッハの作品に見られる自作の使い回しについてでした。まずはMCの鈴木優人氏による初日のイントロを以下に再現してみましょう。
…大作曲家でありますヨハン・セバスティアン・バッハは、生涯をかけて飽くことなく自分の作曲技術を高めるために改訂を行いました。そのいくつかの作品は、例えば初期のバージョン・初期稿と、改訂されたバージョン・改訂稿という形で残されています。ということで、今日はそういったバッハの探究心に焦点を当てまして、いくつかの作品を聞いていきたいと思います。(NHK-FM 「古楽の楽しみ」2024.11.4)この日取り上げられたのは鍵盤音楽で、「フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」から「前奏曲 ハ短調」BWV847.1(847a)と、その改作である「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」から「前奏曲 ハ短調」BWV847.2(847)など、初稿と改訂稿の三組の作品でした。 ところが番組ではこれ以降、今度は「フーガの技法」BWV1080が取り上げられ、「コントラプンクトス」第1、6、13番および「3つの主題によるフーガ」都合4曲がオンエアされることに。これらはもちろん「改訂」とは関係なく、バッハの「探究心」を際立たせるための選曲であることが伺えます。 そして二日目、この日は「ミサ曲 ヘ長調」BWV233が取り上げられ、この作品が自作のカンタータ第40番や第102番の音楽を仕立て直したものであることが示されるとともに、これが当時よく用いられていた「パロディ」という作曲技法に由来することが紹介されました。以下、MCが発したこの技法についての締めの言葉を引用すると、 過去に作った作品を元に編曲し、異なった言語でうまく音楽を組み合わせるパロディの手法、バッハは様々な時期にこのような形で作品を編み出しました。その音楽の必要な様式や雰囲気に合わせてさらに音楽をより良くしていく、そういった 探究心がひしひしと感じられる特集でした。(NHK-FM 「古楽の楽しみ」2024.11.5)となります。これらから読み取れるのは、「セバスティアン・バッハはより良い音楽を創造するために生涯にわたって探究心を持ち続けた偉大な音楽家であった」という鈴木優人氏のバッハ観です。 ちなみに、「パロディ」という言葉を聞くと、亭主も含めた現代人はむしろそれを一段下に見る向きがありますが、その理由を推測することは簡単で、19世紀以降の芸術に対する価値観(美学)では作品の「オリジナリティ」が最も重視され、音楽も例外ではなかったからです。 逆に、セバスティアン・バッハも含め、もっぱら機会音楽を作っていた18世紀以前の音楽家にとって、自作の使い回しはいわば常套手段。ほぼ一回きりしか演奏されない音楽を、目的ごとに別の音楽に仕立て直すことは普通に行われていたことで、それを「探究心」の発露であると解釈することにはやや違和感があります。(そこに見え隠れするのは、セバスティアン・バッハを近代的な意味での「芸術家」として称揚したいというクラシック音楽的な音楽観です。) 鍵盤作品についても同様で、今回取り上げられた作品のうち、例えば平均律クラヴィーア曲集(WTC)の一曲は、ライプツィヒの職に応募する上で自分の教育能力を示す証拠として提出するという目的がまずあり、そのために(同じく教育用に編んだ)フリーデマン・バッハの音楽帳の旧作を再利用しています。確かにWTCに入った改訂版の方が完成度は高いと感じられますが、もし彼がライプツィヒの職に応募するという動機がなければこの作品はなかったかもしれず。そう思えば、改訂の動機を彼の「探究心」だけに帰するのは難しいでしょう。 ところで、パロディという用語がバロック期以前の音楽に特有の使われ方をしていたらしいことを確かめるためにネット検索をかけていたところ、合唱指揮者の三澤洋史さんの「東京バロック・スコラーズ レクチャー・コンサート『バッハとパロディ』原稿」というサイトがヒット。これが大変興味深い内容だったので、以下に少し引用してみます。 (前略)これを読むと、バッハがパロディを多用した理由を彼の「探究心」に結びつけるのは、「贔屓の引き倒し」にも似てやや的外れに感じれられます。三澤氏が「私たちがバッハという作曲家に抱いていた夢がかなり壊れる」と言うのも同じことを意味しているのでしょう。 上記引用部分以外にも、三澤さんの記事にはバッハの音楽やその時代背景について色々と興味深い考察が披露されており、亭主も大いに啓発されましたので、皆様にもご一読をお勧めする次第です。(こちら) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 13, 2024 10:58:54 PM
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