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tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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November 17, 2024
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カテゴリ:音楽
最近、A新聞の夕刊記事で、東京二期会が10月に上演したR.シュトラウスのオペラ「影のない女」の新演出による公演がいろいろと物議を醸している、という話を読みました(11月7日付)。

「『改変』オペラがあぶりだしたもの 原点に忠実たれ 求める日本」という長々しいタイトルの下、記事の中ではP.コンビチュニーという演出家による台本の大胆な読み替え(現代におけるマフィアの抗争劇?)や音楽の一部カットなどの改変が聴衆から大いに不評を買ったらしいことが紹介され、そのような反応についてどう理解すべきかについて、3人の音楽評論家に語らせています。その部分を引くと、
 「生まれてこなかった子供たちの合唱など、作品の数少ない最高の聴きどころである部分を確信犯的にカットしている。音楽のことをよくわかっているからこその『冒涜」。オーケストラは抜群だったし、この1点において今回の上演は僕は『アリ』だと思います。」(岡田暁生氏)

 「今回の演出は、過激さ加減で言うと上の下ぐらいの程度。オペラにおいてはカットは日常的に行われるが、コンビチュニー自身も『一番変えるのに躊躇するのは楽譜』と言っていたので、今回は彼としてもかなり思い切ってやったのだと思う。ついていけない人が出るのは仕方ない」「問題は、観客がオペラに何を求めるかということ。作曲者の書いた通りのものを聴きたいのか、それともオペラという『演劇』を通して何か新しい世界をつかみたいと思うのか。日本という国に、前者の方が圧倒的に多いということだと思います」(長木誠司氏)

 「明治以降の教養主義がガラパゴス的に進化した結果、原典に忠実たれという志向を持つ人たちが現代のクラシックファン層の中心になった、ということが背景にある」(片山杜秀氏)
 これらの発言を受けて、記事の筆者(吉田純子氏)は今回の問題をオペラというクラシック音楽のジャンルにおける「音楽文化」と「劇場文化」の衝突という文脈で整理し、日本ではオペラに対する後者の視点が弱いことが今回の問題の原因だと主張されている様です。

 実際にこの公演を見ていない亭主としては、「改変」オペラについて直接の論評を加える立場にはありませんが、気になるので少しネット上を調べてみたところ、これを真っ向から否定する感じのブログ記事に出くわしました。筆者は樋口裕一さんという方で、実際に公演を見て新演出にカンカンに怒っているだけでなく、前述のA新聞の記事についても猛反駁しています。(こちら

 さて、これらの記事を古楽愛好者の亭主が眺めて思うに、問題の背景にあるのは「大作曲家というブランドの有名作品(=正典)で演奏家が稼ぐ」というクラシック音楽のビジネルモデルにあるにもかかわらず、ここでの当事者たち(特に音楽評論家)がその点をあまり意識していないように見える点が気になります。

 クラシック音楽での主役は作曲家ではなく、あくまで演奏家です。オペラではさらに演出家も準主役というところでしょうか。ここはこの点をまずしっかり押さえる必要があります。

 ただし、彼らがクラシック音楽という看板の下でちゃんと稼げる、つまり相当数の聴衆を確保できるための条件は、その「正典主義」についてもある程度尊重することです(聴衆の大多数が聴きたいものもそれ)。

 この視点から眺めれば、問題の本質は「クラシック音楽家と自認する」演奏家・演出家が、興行の聴衆に対してどこまで自身の表現の自由を行使できるか/すべきか、ということに尽きるように思われます。(例えば「かてぃん」こと角野隼人氏は、自身をクラシック音楽の演奏家とは考えていないのであのような興行スタイルが許されているわけです。)

 この問いに対する答えは、当然ながら「彼らに対して聴衆が何を期待しているか」によって変わります。音楽評論家のような少数の専門家(知的エリート?)は、そこに何がしかの新奇さを期待するのは自然です。(評論を仕事にしてれば尚更です。)一方で、音楽を娯楽の一環として(身銭を切って)鑑賞に出かける大多数の聴衆は、ある程度類型化された表現を前提に生の演奏を楽しむことを期待しています。

 ここで改めてA新聞の記事を眺めると、そこで披露された見解が音楽評論家諸氏のそれを代表したものであることは明らかで、かなり偏っていることは否めません。特に、3人のうち2人までが今回の聴衆の反応を日本のクラシック音楽ファンに特有の現象と捉えていることについては、本当にそう言い切れるのかという疑問も湧いてきます。(前述の樋口さんも同じ疑問を表明しています。)「少数の専門家対一般聴衆」という構図は、比率の大小はあっても日本であろうが北米ヨーロッパであろうが大して変わらないのではないでしょうか。

 それともう一点。音楽自体を改変することはともかく、オペラの台本で時代や状況を翻案する演出は特に珍しいものではなく、今回の聴衆がそれ自体を問題にした(「原典に忠実」だとか「作曲家の書いた通り」を求めた)、というような前提で話をするのも危ういものがあると思われます。

 亭主もその昔、チューリッヒ・オペラでモーツァルトの「フィガロの結婚」を鑑賞したことがありますが(こちら)、台本の舞台は現代の会社組織における人間関係に翻案したものでした。飛び込みで見に行った亭主としては、このような演出であることを事前に知る由もありませんでしたが、これを大いに楽しんだことを今でも思い出します。(要するに、まずは個々の公演の出来・不出来の問題として議論されるべきで、今回はその点が抜け落ちているように思われます。)

 いずれにせよ、音楽興行が事前にチケットを購入するというシステムで成り立っている以上、公演が聴衆のマジョリティを裏切らないよう、演奏家が自分のスタンスをあらかじめ十分周知しておくことは遵守すべきお作法だと思われます。A新聞の記事によると、東京二期会の公演ではそのような努力をされたということで、この点は評価されるべきでしょう。ただ、結果を見る限りまったく不十分だったということで、興行側も学ぶべき点がありそうです。









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Last updated  November 17, 2024 09:35:05 PM
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