音楽と言葉
最近、移動中のヒマつぶしに岡田暁生氏の著作、「音楽の聴き方」(中公新書、2009年を読みはじめたところ、面白くて止まらなくなりました。岡田センセイは同書中で、「音楽を語る」とはどういうことなのかについて熱心に議論しています。曰く、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころか、語らずして音楽は出来ない。」このお題、音楽評論家である岡田センセイにとっては、自身の存在理由を真正面から取り上げたというべきもので、読む方もスリルがあります。通常、音楽をもっぱら娯楽として享受する亭主のような素人は、「音楽を語る」と言っても「(演奏が)よかった〜」、「(音が)きれいだった〜」、「感動したぁ〜」といった印象記、あるいは(馴染みの曲であれば)「第二楽章のテンポが速すぎる」だの「あのフレーズはもっとピアニッシモでシッポリ引いて欲しかった」などといった演奏技術についての感想ぐらいです。これに対し、岡田センセイは指揮者がリハーサルでオケに対して用いるような「わざ言語」、音楽が人に引き起こす身体/運動感覚を再現するような比喩的な言葉を例に、音楽を言葉で表現することが「音楽体験」をより豊かにすると語ります。これは、例えばソムリエがワインのテイスティング際に、単に「美味い/不味い」ではなく、「少しタニンで、カシスやマスカットの香りが… 」などと様々な比喩を駆使してワインの味を表現しようとすることにも似ています。つまり、聴覚や味覚を通して呼び起こされる感覚という連続スペクトルを「分節化」し、そうして区別された感覚に表現を与えることが「語り」の第一歩となる、というわけです。この辺まで合点がいったところで、亭主は大昔に丸山圭三郎氏の「ソシュールの思想」(岩波書店、1981年)を読んでいた時に「なるほど〜」と思った一節を思い出し、本棚を調べて該当箇所を探し当てました。(学生時代の乱読も結構役に立つ?)ソシュールといえば、近代の言語学に大きな影響を与えた人ですが、彼の「記号理論」(ソシュールは言語学において言葉の起源として語られる伝統的な「言語命名論」、例えばアダムが様々な動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけた、といった言語の成り立ちを否定しました)を紹介した一節では、例として虹の色にまつわる話が出てきます。曰く、「我々にとって、太陽光線のスペクトルや虹の色が、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色から構成されているという事実ほど、客観的で普遍的な物理的現実に基づいたものはないように思われる。ところが、英語ではこの同じスペクトルをpurple, blue, green, yellow, orange, redの六色に区切るし、ローデシアの一言語であるショナ(Shona)語ではcipswuka, citema, cicenaの三色、ウパンギの一言語であるサンゴ(Sango)語ではvukoとbengwbwaの二色、リベリアの一言語であるバッサ(Bassa)語でも、huiとzizaの二色にしか区切らない」という事実を引いて、「言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。」(同書pp.118-119)と言語の構成原理を解説しています。さらに重要な指摘として、「コトバ以前には、コトバが指さすべき事物も概念も存在しない」と語ります。要するに、我々はコトバで現実を切り取ることで、その切り取った部分をようやく認識出来る、という訳です。丸山センセイのソシュール解説は、「言語の成り立ち」という極めて一般的な文脈でのものですが、これはそのまま「未だ言語化されていない音楽を語る」とはどういうことか、という岡田センセイのお題を鮮やかに解き明かしているようにも思えます。言語によっては虹の色が二色しかない、というのは衝撃的な事実ですが、亭主のような素人音楽愛好家の語る音楽とは、このような狭い言語空間の中にしかないのだ、というのはもっとショッキングです。もっとも、娯楽として音楽を享受している限り、快い感覚に身を委ねていればよいというお気楽な立場で何の不都合もありませんが…