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一昨日いつもの通り智積院の前を通った時、門の前の東山七條と言う標識が目に入りました。
いつも眺めている光景なのですが、その時この「東山」と言うところに引っかかを感じたのです。 京都の碁盤の目の内側は「〇〇町」と言う町名で言うことは無く、南北の通りと東西の通りで言います。 〇〇町と言うのは多分その地の住民しか知らないのではないかと思います。 そしてその南北、東西の通り名を言うのも例えば烏丸丸太町、河原町五条、千本丸太町と言う風に南北の通りを先に言うのが一般的です。(例外もあるはずですが) この東山七條の直ぐの近くでもこの様にやはり南北の通りの大和大路が先です。 そんな中、四条通りだけは東西の通りなのに四条河原町、四条烏丸、四条大宮という風に常に先に言われるので「四条通りは強い」なんて笑い話のような話もあり新聞でもnetでも良く話題になるところです。 ・・・で本論に戻しますと冒頭の写真はこの通りの交差点なので・・・ 理屈から言えば東大路七條と表示されるべきなのに・・・・東山七條と書かれています。 今まで気にしなかったことなので他はどうかと思って、念の為他の場所をグーグルマップのストリートビューで見ますとやはり(スクリーンショットですが)この様に東山・・でした。 東大路七条ではなくこの東山七條という表示には古くからの住民は(私も勿論その口なのでなので) に違和感を持たないのです。 しかし、ふとこれで良いのか観光・京都としては不適切ではないかなぁと思ったのでした。 何故違和感を持たないかと言いますと・・・・ それは昔は東大路なんて言わずみんなず東山線と言っていからだと思います。 何故東山線と言っていたかと言うと.これははっきりしているのですが東大路は市電の「東山線」だったのです。 (他にも烏丸線などとも言っていました) 更に加えますと、東山七條の発音は・・・「ひがしやまひっちょう」だったのです。 七條は「しちじょう」ではなく「ひっちょう」だったのてした。 今では「ひっちょう」と言う言い方はほゞ言われなくなりましたが・・・。 ・・・・とここまで書いて昔、「七」の読み方につい書いたことが有ったなぁと思い探しますとで出て来ました。もし関心を持って頂いたら覗いて下さい。 ここです。 それからこれは最近にも書いたことですが・・・・ 気が遠くなるほど昔に無くなり、今は影も形もない大仏なのに、こんな名前の交番こそ、「三十三間堂前交番」若しくは「博物館前交番」とするのが観光京都の責務だと思うのですが・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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