講師への不満
ネガティブ全開ですが、ポジティブな事が思い当たりません。では、お話させていただきます。平和研究という学問があります。どうすれば平和な状態を維持できるか? というのが究極的な命題ですが、真面目に研究している方々にとっては、より細分化された部分に、当座の命題があります。たとえば、そもそも平和というのは、どういう状態なのか。争いがない状態が平和であるというのは、だいたい共通した認識ですが、では、争いとは、何であるか? が、次の命題になります。戦争がない状態を、国家レベルでの平和と定義するなら、冷戦構造はある種の平和です。核武装しうる資金力・技術力をもっている全ての国が核武装すれば、核の抑止力によって、冷戦構造類似の平和状態が維持できる、と真面目に提唱する学者もいました。研究する方法は、研究者によって様々で、平和とは単に戦争がない状態のみを指すのではない、と考える学者も多いようです。たとえば貧しい国があるという状態を、1つの平和ではない状態と考える学者も居ます。平和とは、いわば暴力がない状態を指し、暴力とは、2つに分類でき、直接的・物理的な暴力(究極的には戦争)と、間接的・構造的な暴力とである。間接的・構造的な暴力というのは、たとえば競争社会の原理によって生じる負け組のことを、その被害者と考えます。競争力(すなわち努力)が足りなかっただけだと考えるのは、競争する機会に恵まれている人の理論であって、元々競争する機会を奪われているような人々も、国家単位で存在します。これが、いわゆる貧しい国です。世界経済のサイクルから弾き出されているような国々では、自分の国家力だけでは、世界経済のサイクルに参入することができません。たとえば、コーヒー豆の生産国の多くが、借金を背負っていて、収入より支出のほうが多い状態です。自国民に食糧を供給する能力が十分ではなく、国民もまた、食糧を自給自足するより、コーヒー豆を作って売ったほうが収入が多いという悪循環に立たされています。こうした事から、世界経済に参入することができないので、これを構造的な暴力と呼び、こうした貧困もまた、平和ではない状態であると考える学者がいます。さて、前置きが長くなりましたが、平和研究というのは、そういう学問であると理解していただいたところで、本題に入ります。平和を研究する上で、方法の1つとして、反戦運動に取り組んだ人について研究する方法があります。そういう研究をしている人の講義を聞いてみました。冒頭で「運動家としての平塚らいてうの生涯を通して、平和研究を学ぶ」と言われました。参照:平塚らいてう 現代読みでは「ひらつか らいちょう」雷鳥という鳥を「かっこいい」と思ったのか、作家としての名前に使用した。講義開始。生まれはどこで、親がどういう人で、どこの学校へ行って、その学校がどういう性質の学校で、在学中には座禅に興味を示し、平和活動にも戦争にも興味がなく、作家として活動を開始し、この間、1度戦争が起きたが、特段の反応を示さなかった。……と、いう事を言うまでに、なんと1時間。結婚した相手がどういう人物で、最初の子供がいつごろ生まれ、どういう名前で、配偶者がどうなって、次の子供がいつ生まれて、出版社に入ったのがいつで、2度目の戦争が起きたのがいつで、このときようやく母性から戦争に反感をもつようになり──……と、いう事を言うまでに、さらに30分。もうすぐ講義終了の時間になる事に気づいて、運動家としての平塚らいてうがどういう生涯を送ったか、という最も重要な部分をばっさりカット。どこから突っ込んでいいか分からなかったので、とりあえず、最も重要な部分として、平和研究の講義じゃないの? と突っ込んでみた。すると、第2回講義では、別の人を取り上げ、運動家としての活動を始める前の人生の部分を、30分に渡って長々と講釈。ようやく運動家としての部分を講義し始めたと思ったら、どういう活動をしたかを順を追って示しただけで終了。結局、生涯を学んだだけで、生涯を通して平和研究について学ぶといった冒頭の言葉はまるで達成されませんでした。