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テーマ:中国&台湾(3303)
カテゴリ:海外情報
さて今回は溥儀の5人の夫人のうち、皇后・婉容と側室・譚玉齢のお部屋にご招待。
ふたたびウィキペディアから引用(一部編集) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 17歳の時、清朝の廃帝宣統帝(愛新覚羅溥儀)に皇后として迎えられた。英語名はエリザベス(Elizabeth)。才色兼備の女性であったが、溥儀のインポテンツかホモセクシャルが原因で夫婦仲は次第に冷めていった。鬱屈した気分を晴らそうとした婉容はアヘンに手を出し、重度の中毒に陥った。 満州国時代末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたまま、不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったという。ついには精神錯乱を来していたというが、溥儀は婉容に手をさしのべることもなく、むしろ離婚を考えたと言われる。・・日本の敗戦後、溥儀が日本亡命のため逃亡した後、嵯峨浩らわずかな親族や従者と共に取り残された形となった。各地を転々とした後、結局中国吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死去したといわれる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 故宮に飾られている数々の写真を見ると絶世の美女であり、豚に真珠かホモに美女かという構図だ。見てくださいこの美貌! しかしアヘン中毒でこの通り。ああ・・。 この使用人と密通の噂も。ああ・。 この野郎 第2夫人の文繍は皇后の婉容と一緒に満州国に嫁いだが、皇后との確執などに耐え切れず離縁、里帰り。1953年、45歳で病死。 祥貴人と呼ばれた譚玉齢は1937年に宮中に入った。 写真で見ると大正時代のカフェの女給さんのような感じでもあります。 彼女は読書、書道を良くし、裁縫などの才能もあったという。 溥儀はこの譚玉齢を最も気に入っていた。戦中の1942年に22歳で謎の死を遂げるが、溥儀は彼女を土葬するに忍びなく、満州国崩壊まで霊安室に安置しているという。 写真は彼女の書斎と、溥儀と食事をともにした応接室。 このインテリアは中国の伝統と西洋のモダンさが融合し、とても優美であると思うが、いかがか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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