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テーマ:☆仙台☆(1714)
カテゴリ:よもやま話
天正12年(1589)7月4日、伊達政宗公は相馬氏の出城「諸手の城」を千五百の軍勢で囲んでいた。 公は軍勢を誇示しながら日数を重ね、降伏を促すこととし、戦わずに二日間を費やした。 3日目、政宗公は家臣片倉小十郎景綱に命じ、手紙を城に届けた。 「今日は七夕にて都も鄙も押しなべて、女子は針に五色の糸を通して乞巧を祈る。男子もまた双星の会合を祝し、詩を賦し、和歌を詠じ相い楽しむの夜にて候えば、今宵一夜は修羅の一夜を放れ、相楽しみたく候。如何に。賢慮を問う」 手紙を読んだ城主の胤景は、大いに感激し、 「むう~この戦場にあっても風雅の心を忘れない政宗は、聞きしに勝る名将である」 と、短冊に筆を走らせ、政宗の陣に送った。 「湾しぼる 弓矢もしばし 露のにわ 君と契らん 七夕の空」 政宗はわが意を得たりと、たちどころに短冊に返歌を託した。 「梓弓 矢竹心も 露の間は 一夜を千夜と 契る七夕」 胤景はこの歌を城内の将兵に披露し、皆で酒を酌み交わしながら一夜を楽しんだ。 政宗公も家臣に酒肴をふるまい、七夕の遊びを催したという。 「伊達治家記録」には、天正12年7月上旬、伊達氏と相馬氏は和睦したと記されている。 (参考 「独眼流政宗の素顔」 逸見英夫) ココロに沁みる話じゃな~。 戦いの中にも人間としての品格、風雅を忘れない心・・ 少しはあの野蛮な亀田親子も見習ってほしいものだ・・って関係ないか 手紙のやりとりは全部矢に結んで相手陣営に放つというもの。 この矢が人に当たっていたらバトルになっていたかな~なんて 仙台七夕は昭和3年、元来旧暦行事だったのを新暦日付の月遅れ、すなわち民俗学上中暦と呼ばれる8月6日、7日、8日の3日間にわたり行われることとなり、現在に至っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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