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オフミの温泉メロディ

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Aug 8, 2007
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カテゴリ:よもやま話
新田次郎氏の名作「八甲田山死の彷徨」は、明治35年に起きた雪中行軍遭難事件を題材にとった小説である。
ここではこの事件が、トップのリーダーシップのあり方、危機管理の適否が組織の盛衰に決定的に影響を与えた事例として見事に描かれているために、企業人、とりわけ管理職の必読の書として不動の評価を受けたものである。
(なお、ベストセラー「国家の品格」の著書藤原正彦氏が新田次郎氏の次男であることは常識ですね。)

私が尊敬する佐々淳之氏の「危機管理のノウハウ」という著書に、素晴らしい解説が載っているので、引用させていただく。

□■◇■◇ □■◇■◇ □■◇■◇
明治35年1月、迫りくる日露戦争にそなえて、第八師団司令部は、青森の歩兵第五連隊と、弘前の歩兵第三十一連隊に、寒冷地装備のテストと訓練のため、厳寒の冬の八甲田山において、実験的な雪中行軍を行うよう、示唆した。

想定としては、ロシア艦隊が津軽海峡と陸奥湾を制圧し、鉄道と道路が艦砲射撃で破壊された場合、青森=弘前、青森=八戸間の交通は八甲田山系の縦断しかないと判断し、はたして積雪を冒して軍の移動が可能かどうかを両連隊にテストさせようというのがその狙いだった。

1月20日、徳島大尉(実際は福島大尉)の指揮する弘前第三十一連隊の一個小隊38名は、9日間猛吹雪のなかを酷寒の八甲田山で苦闘したすえ、全員無事、その踏破に成功した。

一 方、1月23日、ちょうど第三十一連隊の徳島小隊とは逆のコースで八甲田山縦走を試みた神田大尉(実際は金成大尉)のひきいる青森第五連隊の一個中隊 210名の将兵は、山中で道に迷い、彷徨のすえ、指揮官神田大尉以下百九十九名が凍死するという大惨事をひきおこしてしまった。

 これはまさに<最悪にそなえよ>の心得を守り、あわゆるリスク計算をして、悲観的に準備したうえで危地に向かった徳島大尉の成功例と、”楽観的に準備し、悲観的に実施”した神田大尉の危機管理の失敗例との、あまりにも鮮やかで残酷な対比であった。
 とくに準備段階におけるリスク計算の周到さのちがいが、徳島大尉には成功を、神田大尉には死をもたらした。

 冬の八甲田山の恐ろしさを知る徳島大尉は、小隊の編成に当たって、身体強健な将校、下士官たちを基幹とする実験行軍隊を編成したが、兵はわずか四名しか参加させていない。
 そして雪山の恐るべき実態を十分研究し、みずからの予行演習をやってみたうえ、携行品や装備資器材について細心の工夫を加えるとともに、地理に明るい地元の案内人をやとい、民宿方式の安全第一の日程を組んで八甲田山に挑んだ。指揮権も徳島大尉が一元的に掌握した。

  これにたいし、神田大尉の場合は、本来ならばオブザーバーとして参加したはずの大隊長、山田少佐(実際は山口少佐)がいつのまにか神田中隊長の指揮権を干犯するようになり、そのため危機の真っ最中に命令二途に出づる<双頭の鷲>状態となり、その結果、計画立案者であり、指揮官であった神田大尉にまかせてお けば避けられたかもしれない悲劇を招来した。・・

神田大尉は、かなり周到なリスク計算をやろうとしたようだが、粗暴であることが男性的であると誤信している指揮官のひとりだったらしい山田少佐に一括され て、雪中行軍の知識も経験も乏しい一個中隊の兵士たちをひきいて、案内人もなしで、日程も杜撰なまま、無謀な冒険にのりだし、ほとんど全滅の憂き目をみた のだが、危機管理の基本的心得を欠いた神田中隊にとって、悲劇は起こるべくして起こったといえよう。

□■◇■◇ □■◇■◇ □■◇■◇
(山口少佐については、実際には小説に描かれるような粗暴な人物ではなかったともいわれる)

・・それにしても命令二途に出づる<双頭の鷲>、現在社会においても十分に肝に銘ずべき教訓である。地位が上にいけば行くほど、直接の差配指揮権限が部下にあることを忘れてしまいがちになるものだ。
私は最近、そのようなケースを何度か目の当たりにしている。

さて、この遭難の地は、酸ヶ湯温泉旅館から高原の快適な道を20分ほど走らせたところにある。そこだけが視界が開け、なだらかな丘が広がる。

そして「雪中行軍遭難の地」という立て札が胸を打つ。


車を置いて200メートルほどその丘を登ると、後藤伍長の銅像が建っている。
これは、明治37年、当時の大山参謀総長、寺内陸軍大臣他が発起人となり、全国の将校たちの寄付によって建立されたもの。

任務を果たそうと気力を振り絞りつつも、酷寒の大自然の前に立ち尽くす兵士の姿が感動的に描かれる。


しばし瞑目したのち、青森市方面に向かい、雪中行軍遭難資料館に寄る。



行軍の経路や地理的条件、遭難した将兵たちの写真、遺品などが展示されており、ここでも私は非常に感銘を受けながらひとつひとつをじっくりと見せていただいた。





私にはこの館内に、訓練の途中にいのちを落としたという無念が漂っている気がした。
敵地での戦死とはちがう形の悲惨。

私は、なぜか知らないがこの雪中行軍遭難事件に、非常に心惹かれるものがあるのである。
前世において、なにかこのような、無念の死を遂げたことがあるのだろうか、とふと思ってしまった。






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最終更新日  Aug 8, 2007 07:52:00 PM
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