小沢健二inフリッパーズギター・序論
これは私がこよなく愛するフリッパーズギターについて書いた文章です。 The saddest music fan of the world 21世紀の今を生きる小沢健二ファンはわりと悲惨と言っていい。小沢健二の歌はよく「宗教的」とされていたし、小沢自身も「犬はほえるがキャラバンは進む」のライナーノーツで、「(このアルバムに入っている曲は)ゴスペルのようなもの」と認めている。とすれば、小沢健二というキリストが自らを磔けてしてまった今、残された使徒たちが「復活するのかしないのか」を巡っておろおろしている現状が良く分かるはずだ。 もちろん、小沢健二がとかく宗教的であるにしろ、それは全ての「消えてしまった有名人」ファンに多少あてはまるかもしれない。改宗できるものは、幸せである。この一文には皮肉はもちろん、マイナー世界のファンがよく持っているような過剰なナルシズムも込められていない。本心である。私は他人に負けない小沢健二ファンと自認するが、だからといってあらゆる人にとってmustな存在であるべきとは思わないし、所詮これからふんだんに使う「最高」や「素晴らしい」も主観的言葉に過ぎない。小沢健二ファンとB’Zファンのどっちが高級かなどという論争は、キリスト教徒とイスラム教のどっちが高級かという(もちろん創価学会とか幸福の科学でもいいのだけど)、ホントにつまらない、下らないがうんざりするぐらい起こりやすいような争いなのだ。結局あらゆるファンの言葉は「自分の愛するものを、どう愛してきたか」ということだけであり、この文章もその一つである。 フリッパーズの「定義」 小沢健二を語るには、まずフリッパーズを語らなくてはならない。様々に詮索した後、結局私はフリッパーズ時代の小沢と小山田は分離不可能な(分離可能になったらあっさり分離した)存在だと判断した。したがってフリッパーズの話題の時は両者の区分をせず、一心同体の存在とみなして話を進めたい。フリッパーズがJポップに残した足跡は広く認められている。もはや、食傷気味に語られてきたグループだと言ってもいいだろう。僕が1年前偶然ある雑誌を見たら「フリッパーズ解散10周年記念特集」をやっていて、今年たまたま見たら「アフターフリッパーズ」という特集をやっていた。ファンにとって忘却されていないことは主観的にはうれしいが、客観的に見て活動期間3年そこそこのバンドから解散して10年以上たっても抜け出せない雑誌は進歩が無い。 CMに曲が使われたり、大量のフォロワーの存在にもより、メディアの中で未だに生き続けている名前と言えるだろう。しかし僕が従来のフリッパーズ論に対して不満なのが、論者がもっぱらその手法や外観にばかり目を向き、やれあの時代にあのことが出来たことが画期的だの、渋谷系を創始したのがすごいだのと持ち上げられてそこで終わっているものが多いことである。これも自信を持って言えるが、恐らくあらゆる表舞台から隠遁した表現者たちのファンにとって、最もつらいのは信奉する者のかくも長き不在であるのは言うまでもない。しかし同じぐらい苦痛なことは自分自身にとって神様のような存在が、他人によって乱暴に意味づけられてしまうことである。フリッパーズがその卓抜な手法や外観で伝えようとしていたのは何か?フリッパーズの本質を、ここでは考察したい。 まず、そもそもフリッパーズに本質はあるのか?という議論になる。「フリッパーズは安易な引用しまくりのパクリミュージシャンだ!」と声高に主張する人いるからだ。もちろん「そうではない!フリッパーズは志を持ったオマージュで『引用の90年代』の幕開けを行ったんだ」」と声高に反対する人がいる。今までの流れでだいたい分かるだろうが、この争いに対して私は「どうでもいい」の立場をとっている。当たり前の話だ。少なくともフリッパーズファンにとって、他人の言葉をふんだんに借りていたとしてもフリッパーズはフリッパーズでしかない。それがどっかからの引用に過ぎないと判断してしまえば、おのずから「オリジナル」の方に行っていつまでもファンなんかしてない。私にはフリッパーズが十分すぎるほどオリジナルだとしか思えないから、未だに改宗できずにいるのである。だからこれはわりと簡単に決着がつく。それに対して、フリッパーズの本質は少し難しい。私の一応の結論としては、フリッパーズの本質は「青春」である。 かつて、友達に「なぜおまえはフリッパーズが好きなのか」と聞かれて、とっさの言葉につまったことがあった。しかしそこは簡単に引き下がるわけにいかないから、ちょっと考えてから「それは多分フリッパーズがぼくが聞いた中で一番青春をよく表現しえているバンドで、そして今自分自身も青春時代にいるからだと思う」と自分としては自信満々に答えた。ここで質疑応答が完結すれば問題なかったが、現実としてその後に「青春って何?」と恐ろしく哲学的なことを聞かれて、はげしく動揺したのである。 「青春ってなんだろ?」 はっきり言って「青春」自体、もはや照れずには語れないほど「手垢にまみれた」言葉なのだが、あえて何かといえば、それは初々しい恋愛だったり、歯をくいしばるような努力だったり、偽善な大人たちに立ち向かっていく反抗だったり、それぞれの栄光と挫折の日々ということになるかもしれない。しかしフリッパーズはそんないかにも「有意義」な、30過ぎた人が「あれは青春だったなー」と感慨に耽るような青春を題材とした作品ばかり作っていたのだろうか?もちろんフリッパーズのいくつかの作品はそれらをテーマにしている。いや、大半かもしれない。実際にフリッパーズの曲における黄金律は、「恋とマシンガン」のサブタイトルである「young,alive,in love」だと言っていいし、その分野の表現に関しても出色な出来である。 しかしもしそれだけだとしたら、何も自分はこの11年前に解散したバンドにここまでこだわることはない。そうではなくて、フリッパーズの作品には、実際の青春時代にはひしひしと感じていても、過ぎてしまったら2度と思い出さないだろう(となぜか分かる)ものが詰まっているからこそ、自分はかけがえのないもののように大事にしているのではないか。例えば「ねえまだかな午後のスコール、もうずっと待ち続けてる」(from Going zero)というなにげないワンフレーズに込められた「喉の渇き具合い」、また、同じ曲の中で歌われる「からまる殺すべき日の風景も やがて忘れていくからね」という歌詞は青春の日々の中でも、絶対に「いい思い出」になりえない、永遠に脳内から抹殺される記憶の存在に触れ、それを「大人になって生きてゆける」ために忘却せざるを得ない切なさも含め、淡々とまとめてさらりと歌い上げる彼らに、どうしてしびれずにいれようか(ちなみにこの「Going zero」は曲も実に歌詞にマッチしていて、私見ではフリッパーズの中でも白眉である)また、例えば「いつか夜は静かに明けていく、白く変わっていく空を見てる。星のかなたでは、猫が眠るだろう」(from 星の彼方へ」)を時々真夜中に聞くと、ぼくは思う、本当はどうでもいいことばかりじゃないかと。見聞きすることも、表現することも、伝えることも、そこに本当の意味はあるのか分からない。ひたすら無意味な時間を意味ありげにすごしているのだけかもしれない。夜が明けていくのは、ただ次の夜を待つためでしかない。 結局フリッパーズのすごさは何と言っても、青春を何かと予め規定した上で、それにそったテーマの作品を延々と作り続けるというようなことはしないで、自らの青春に合わせてその「実例」をいっぱい示した後に、青春の終了と共にその象徴であるフリッパーズをもきっぱり消したことである。青春は「一つ」ではない。これであり、あれであり、このようなものの全てなんだ。表現された青春は往々にして、それを過ぎていった後の者によって意味づけられたものだから、そこには過剰な美化とノスタルジーな匂いが漂っている。フリッパーズはその意味で永遠に青春現在進行形のバンドで、だからこそ、青春真っ只中の今の自分にとって特別な価値があるのだ!と(恐れることなく)言ってしまおう。もちろん、いつか僕にも青春の終わりがやってくるだろう。その時、まだ自分は今のようにフリッパーズを愛せるのだろうか。いや、かつて愛していたという思い出だけで十分だとするべきだろう。 青春は一言では語りつくせない。それどころか、本何冊書いても語りつくせない。フリッパーズも彼らが表現した青春同様に語りつくせない存在である。