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翔(はばた)く女性を応援する会社を目指します

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2024.06.10
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私は、大学生時代に就職先に、アパレル業界は 全く考えていなかった。
将来、新聞記者になろうと思った。 だから、勤労奨学生として、新聞配達をした。

でも、新聞配達をして、

新聞業界の裏を知った。

丁度その時に、

読売巨人ジャイアンツ
江川選手の空白の一日事件があった。
各社
の新聞記事は、
江川選手を大げさに記事にした。
新聞も良く売れた。

ペンの怖さを学んだ。

母方のじぃさんからは
「新聞記者になったら、出入り禁止だ。」と脅された。
明治生まれのじぃさんには、
頭が上がらない。(父親が、ガンで亡くなった。経済的な応援が、少しは、あったからです。)


話しを戻します。


毎朝、3時半起床。

配達所から、大学まで、1時間15分。

30分早くおきなければ、ならいない。


夕刊も、集金も、新規拡張も行っていた。

昭和53年の10月末に ばぁちゃん(母親方)から、新聞配達先の寮に 夜7時ごろだったと記憶している。
「トシ君、あなたのお父さんは、ガンなのよ。末期のガン。


 手術が成功しても、3年か生きられない。
あなたのお母さんには、胃潰瘍の手術だと言ってるが、もう手遅れのなのよ。」と言われた。 11月頭に手術。 その日は、朝刊を配り終えて、休みをもらった。

新聞配達の所長に 嫌みを言われながらも、名古屋に帰省した。 そんな労働条件の当時でした。 「胃潰瘍位の手術で、名古屋に帰省を言うと 甘い。」と言われながらも、懇願しました。


次の日の15時ごろには、もう 配達所にいました。(川崎市多摩区 JR稲田堤駅付近) そして、昭和58年からは、 東海大学の無返済奨学金(勤労奨学金)に合格しました。 3年間、頂きました。 大学3年生の時です。 父親を昭和5510月に亡くしました。


就職の件では、悩みました。 担当ゼミの先生にも、相談しました。 そして、 東海大学の就職課の長岡さんという職員さんにも、相談しました。  
「トシ坊、アパレル業界に行けよ。オマエみたいな営業向きな男は、  アパレルメーカーの営業マンだ。 アパレルに興味が無い?  そんなことは無い。
アパレルメーカーの営業マンは、今不足気味だ。  東京スタイルという東証一部上場会社に勤めて、  お母さん孝行をしろよ。」と言われましたが、
 名古屋支店のある会社が、第一希望でした。

 
就職の件で、 名古屋に帰省しました。 長男である兄貴に、 「トシ坊、名古屋に帰って来い。 兄弟3人で、お母さんを助けよう~」と言われました。
  次男である私も、それが良いかと思って、名古屋支店がある会社を選ぼうとしました。   そして、戻って 就職課に出向きました。  
「長岡さん、私は、父親を大学3年生で亡くしています。名古屋支店のある会社  三陽商会が第一希望です。」と伝えました。  
昭和568月に、三陽商会名古屋支店の支店長の面談を受けました。
「良い感触を得た」と思い、内々定の返事を頂きました。    

本面接の為に、就職解禁日の101日を迎えることになりました。  
 
晴天でした。朝5時に起床。   小田急電車に乗って三陽商会の本社に向かいました。 日経新聞をもって、並びました。     そして、昭和56101日の朝7時に、到着。   東証一部上場の「三陽商会の東京本社(信濃町))に、スーツを着て並びました。  
もちろん、東京スタイル(東京・四谷)にも、8月末には、会社訪問をしていました。     結果は、三陽商会第一次面接合格。でも、携帯電話の無い時代です。  
電報が、届かなかったのです。( 当時の電電公社の配達人さんは、アパートが判らず、配達しなかったのです。)   あとから、判明しました。(もう、頭にきました。)   合格の自信はあった。 なぜなら、三陽商会の名古屋支店長から「内々定」の返事が、あったから。


 
就職課の長岡さんが、三陽商会人事部に電話すると 「おたくの大学の学生さん、合格でしたが、今日、第二次面接に来ませんでしたので、不合格にしました。  


営業マン希望300人から、100人に絞り込みました。残念ですが、諦めてください。  電報が、届かない。そんなことは、わが社には、関係の無いこと。
電電公社に言ってください。」と。   涙を流しました。    

薄電球のアパートに帰りました。   泣き崩れました。  亡き父親の遺影を観ると   「笑っている父親になっていたのです。」   そう見えたのです。(後からきづきました。東京スタイルに入社して、ロコレディに入社する運命だったのです。)   頭にきて、父親の遺影を投げ捨てました。 「おれは、三陽商会名古屋支店に行くんだ。母親を助けるんだ。」とその写真に向かって言いました。

 
その後、形だけの第二次面接を三陽商会本社で、人事部役職無い人が、小さな部屋で、1人だけで、受けました。   気持ちの無い第二次面接でした。  
「もう、形だけの面接ということを悟りました。もちろん、不合格でした。」 ライバルは、三陽商会だ。 今に、見ていろ~。・・・と心の中で、誓いました。

東京スタイルに絶対受かってみせる。 ​   三陽商会の第2次面接(電報で、指定されていた105日)の日程では、   東京スタイルの第2次面接を受けていました。  

 
会社説明会は、約1,500人(営業・デザイナー、生産部門などの全ての希望者)   2次面接を終えて、第3次面接では 営業部門だけで、350人でした。     役員面接でした。 高野社長から、質問をうけました。 「どうして、東京スタイルという会社を希望したか?」 「大学生時代で、嬉しかったことは? 悲しかったことは?」   この3つを聞かれました。

「私は、営業マンになりたいのです。アパレルのことは、全くわかりません。  入社して、アパレルのことを学びます。営業マンになりたいのです。   嬉しかったことは全国の友人を持てたことです。悲しいことは、大学三年生時に、   父親をガンで、亡くしたことです。父親は、剣道家でしたので、私の心の中では、父親は、生きています。 

勤労奨学生として、新聞配達をして、新聞拡張学生チャンピオンなったことが、嬉しかったです。だから、営業マンになりたいのです。」と答えました。  

ファッションについては、一切言いませんでした。 わかるはずは無い。興味が無いアパレル業界ですからね~(苦笑い)   ファッションを語った学生(青山学院、慶応大学、早稲田大学)は、ほとんどの学生は、不合格でした。   見事に、私は採用が決まりました。(営業マン71人の採用です。)     昭和56年年末に 名古屋に帰省すると   長男である兄貴に「トシ坊、おまえは、わざと三陽商会の面接落ちたな?????」といきなり、 殴りかかってきました。  

「兄貴、信用してくれ。おれは、三陽商会名古屋支店の支店長からは、内々定を。そして 第一次面接合格していたんだよ。   合格の電報が配達されなかっただけだよ。信じてくれ。」と答えました。   母親は、「としあき、お前は、東京へ行け。 亡くなったお父さんは、としあきには、好きな道を行かせろ・」と言っていたよ。     そして、昭和5741日に   東京スタイル本社勤務になりました。 寮は、東京杉並区高円寺北に遭った東京スタイル高円寺寮に入寮して、 軍隊のような営業マン活動がはじまったのです。     月末の2日間は、会社で、寝泊りが当たり前。 売上目標がいかないと、罵声を浴びさせられる。  


 
月末の棚卸しは、フロアーにゴミ一つ落ちていない状態で。   「高野社長、巡回」という言葉から、在庫のチェックが始まります。   「ご苦労様です。」・・・この言葉は、先輩であっても 「ご苦労様」という言葉で、統一されていました。   ラルフローレン事件は、   3階に集合でした。(私が所属する百貨店3部は、4階でした。5階は、量販店グループ)   3階は、百貨店第2部のフロアーでした。 「ラルフローレン ブランドが、オンワードグループにとられた。」 と高野社長から発言がありました。

昭和60年の3月から、小売業の転職を考えていました。 「おれは、小売店向きだ。名古屋に帰るぞ。」と。 すると、 セゾングループのバイヤーさんから 「茨城県のロコレディという会社が、トシ坊に会いたがっている。」と 言われました。

「羽富 正三という社長さまが、オマエに会いたがっている。」と言われました。 つくば万博の時です。 約20回の面接・面談を繰り返しました。 昭和6210月に入社しました。 そして、平成元年5月に 結婚しました。 養子縁組です。 人生は、塞翁が馬ですね。













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最終更新日  2024.06.10 07:31:14
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