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社長室 業務日誌

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2005/07/04
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NHK『そのとき歴史が動いた~さらばサムライ 西南戦争・田原坂の真実~』を視聴した。

明治維新後、士族(旧サムライ)の特権を奪う政策が連発された。
日本の近代国家への発展途上において、避けては通れない道だった。

「国民全員が国づくりに参加し、
 国民全員が実力次第で出世の可能性を持つ。
 この仕組みを通じて、国民全員の頭脳を結集し、武力も結集する。
 こういう仕組みにした方が、本当に強い国になる近道である」

というのが明治維新の本質だったからだ。
そのためには、旧来の特権階級を破壊し、フラットにする必要があった。

しかしながら、「廃刀令」という政策で、サムライ達はキレた。
サムライの魂のシンボルである刀を取り上げる、というのだ。

「国を守る」ために磨いてきた自分達の腕。自分達自身の存在意義。
それらを完全に無視されている気がしたのだそうだ。
当時の彼らの怒り、わかる気がする。

――――――――――――

各地で士族達の反乱が起こった。

特に、最後のサムライ達と称された、
薩摩武士達も、維新の元勲、前陸軍総大将で、戦の生き神、
薩摩で隠居生活に入っていた西郷隆盛を担いで、挙兵。

隠居していた西郷が挙兵に応じた理由は、次のように言われている。

自分が「国を守るために、命を棄てよ」と教えてきた若駒たち。
彼らの腕、彼らのプライドは、十分に国家に役立てる。
悪かったのは、ぬるま湯につかった、旧武士達。
こいつらはサムライではなく、だから売国奴になる恐れがあったから、討った、
若駒たちは違う。自分がサムライに育てたからだ。

しかし、西郷が去った後の明治政府は、西郷の思惑とは異なり、
士族全てを一括りにした、極めて大雑把な対士族政策を遂行している、
と言わざるを得ない。

西郷は、士族も誇りを持って生きていける新しい時代を描きたかった。
よって、あくまで明治政府と話し合う目的で挙兵、
熊本~博多に攻め上り、そして上京の道を描いていたという。

この辺のストーリーまでは、
まあ、かなり大雑把に、映画『ラストサムライ』でも描かれている。

――――――――――――

西郷は鹿児島から北上し、九州の政府軍の拠点、熊本城を包囲。
ここを落とせば、マジ、政府が転覆する可能性があった。
理由は、西郷というカリスマ、熊本城陥落というシンボリックな出来事、
これらが重なれば、全国の士族が一斉に立ち上がる可能性があったからだ。

政府軍の総大将は山県有朋。かつて西郷の右腕だった男である。
西郷がカリスマで、実務に長けた山県が一時期の政府軍を統治していた。

この山県自身が、熊本城救援のために現場に赴き、
西郷と対峙することで、かの有名な「西南戦争」が勃発する。

――――――――――――

兵数は、反乱軍、政府軍共に1万5千。
ほぼ同等ながら、政府軍は最新の装備があった。大砲や連射砲。

平地戦では、刀vs大砲は相手にならないことは明白。
よって、戦の天才・西郷は、熊本城の北20kmに位置する
田原坂という小高い丘を戦場に選んだ。

この田原坂、奇しくも伝説の武将、加藤清正が
北方からの侵入者を迎撃するために整備した「天然の要害」であった。
田原坂は、北方から熊本城へ向かう唯一のルートで、崖に挟まれた細い坂道である。
地形の妙から、銃撃戦ではなく、必然と斬り合いになる。
しかも真っ向からの斬り合い。
この場合、「気合」に勝る剣士が勝つ、
具体的には、一歩でも深く踏み込んで、一太刀を浴びせる側が勝つ。
恐怖心に打ち克ったものが勝つ。

加藤清正は、部下の太刀=サムライ・スピリットの高さが、
最も威力を発揮する戦場を整備していた、というのだ。

逆に言うと、この田原坂を突破されると、熊本城の篭城しか戦略は残されない。
しかも、今回の西郷にとっては「篭城」はしてないから、
田原坂が最後の砦、ということになる。

―――――――――――

長州の「奇兵隊」の流れを汲み、
「国を守る」という意志が、或る意味で武士達よりも高かった
「非武士階級」の強さを原体験に持つ長州藩出身の山県有朋は、
新しい時代における軍隊の整備にあたり、士族には一切、頼らないことを重視した。
つまり、「国民皆兵・徴兵制」を原理原則としていた。
「一部の人間だけに頼る体制は、古い時代
 新しい時代は、国民全員が国を守る」というのを徹底したかったらしい。

しかしながら、新政府軍はまだ、過渡期。つまり、育っていなかった。
数年前は、元農民・町民だった新政府軍の兵士達。、
いつも大砲や飛び道具に頼っていたため、今回が初めての斬り合いだったらしい。
新政府軍の兵士達は、薩摩藩士との斬り合いに腰が引けまくっていた。
実は、大砲も、恐いから目をつぶって撃っていたのだとか。

そりゃそうである。
戦う理由が明確で、完全に意思統一されている薩摩武士。
対するは、なぜ自分が命を賭けて戦うのか、全く意味がわからない。

「命令されたから、しょうがなく戦っている」
数日後には、新政府軍の兵士は、突撃の号令をかけても、一歩も動かなかったそうだ。

新政府軍は、何日も、この田原坂を突破できないどころか、
脱走兵が後を絶たず、軍隊として崩壊していた。

―――――――――――

ほんと、あと数日で熊本城が陥落する、という事態が迫っていた。

岩倉具視をはじめとする政府首脳は相当に焦り、
「各地の士族を傭兵部隊として、送り込め」といった。
しかし、山県は用いなかった。あくまでも、国民皆兵の軍隊で勝ちたかった。
サムライをもってサムライを制しても、時代が新しくなったことにならない、
という思いからだった。

そんなことをやって、この戦争を鎮圧しても、
問題を先送りしただけで、また同じ問題に突き当たる、というのだ。

この点、山県は正しい。

しかし、新政府としては、熊本城の陥落を絶対に避けたかった。

―――――――――――

ある日、山県の元に「東京府警視局 警察官」の100名が志願兵として集まった。
つまり、警察官である。彼らは、元々は、各地の旧士族。仕事がないから、士官していた。

俺達を使ってくれ、という。
しかし、岩倉具視の命令ではなく、自分達で来た、という。

彼らは、剣の腕前が滅法立つものが揃っていた。

しかしながら、山県は、その日は、この申し出を断った。

―――――――――――

戦況は刻一刻と悪化し、数日中に突破できないと、マジやばい。
徴兵制どころか、明治政府そのものが存亡の危機に立つ。
山県は苦渋の決断にて、彼らの剣の腕前に、田原坂突破の可能性に賭けた。

たった100名vs薩摩藩士1万5千。

この100名が刀を使える、といえども、勝つことはできるのか・・・? 

―――――――――――

しかし、なんということか。
この100名は、田原坂に目がけて、刀だけで突撃。
腕を切られても、血を流しても、死ぬ前にも必ず一人は斬って倒れる・・・
ひるまず命を賭して突撃し、一気に突破してしまった。

旧士族たちは、9割方がこの田原坂で戦死したという。

―――――――――――

彼ら旧士族たちの「気合」の源泉がどこから来るのか、
山県は当初、わからなかった。

しかし、最後にわかった。彼らの雄たけびで。

「憎き薩摩、戊辰の恨みを今晴らすべし!!」

――――――――――――

警察官、といった彼らは、旧会津藩士たちだった。
かつて、薩摩藩士たちに、故郷・会津を蹂躙された者達。
仲間・家族を傷つけられ、「国を守る」プライドを完全に傷つけられたサムライ達。
彼らは、もう死んでもいい、薩摩に一太刀浴びせたい、と思っていたのだそうだ。

少し、哀しい話でもある。そのスピリット、エネルギー、他に使えばいいのに・・・。
きっと、山県もそう思ったことだろう。

結局、山県はじめ新政府は、
皮肉にもサムライ・スピリットで、サムライ・スピリットを制した。

田原坂を突破した新政府軍は、その後、数十時間で反乱軍を鎮圧したという。

―――――――――――

終戦直前、篭城する西郷に向けて、山県は手紙を送っている。

「あなたがた(サムライ)の偉大さはよくわかりました。
 あなたがた(サムライ)が持っていて、私達が持っていないものもよくわかりました。
 もう、それは証明された。もう血を流す必要はありません」

かつての部下から、かつての師匠に向けた手紙。

この手紙が届いた翌日の総攻撃をもって、西南戦争は終結した。

―――――――――――

この西南戦争を原体験として、山県の軍隊づくりは変わった。

軍備拡充の観点と同様に、
「戦う理由・命を賭する理由づくり」=軍人のメンタル教育が重視された。

明治15年に山県が制定した、
軍人のメンタリティ・プログラムを記した「軍人勅諭」には、
・軍人は質素であれ
・軍人は国防に命を賭せよ
・軍人は約束を守るべし(二言はない)
など、どこかで聞いた内容が並んでいた。

そう、昔でいう「武士」の心得。
つまり、サムライ・スピリットが盛り込まれる結果となった。

サムライの精神、武士の伝統が、日本軍の中で生き続けることとなったのである。

後に、精神性の過剰な強調が負の遺産として作用し、
太平洋戦争敗北時に無用な血を流した、という指摘もある。

しかし、少なくとも、昭和初期までのスピーディな国家発展の過程において、
西郷と山県によって継承された
『サムライ・スピリット』が大きな要因となった、というのは否定できない。

―――――――――

また、山県は、
「故郷・家族を守るために、死ぬ気で戦う」
そのメンタリティを広く深く浸透させるために、下記の施策をとった。

戦う理由のシンボルとしての「天皇陛下」を明確にし、
それまで公家の着物姿ばかりだった明治天皇を、軍服の写真ばかりとした。
「天皇が、総大将である」という立て付けを明確化した。

そして、国民は「天皇の子達」と位置づけることで、
「故郷・国家・家族(=天皇)を守るために、死ぬ気で戦う」
といった、メンタリティ発揚をシステマティックに組み込んだ。

山県は、この仕掛けを、軍事だけでなく、経済発展にも寄与させた。
「故郷・国家・家族(=天皇)のために勉強し、働き、役立つ人になる」
みたいな立て付け。

つまり、
天皇の御旗とサムライ・スピリットが上手にかみ合う仕組みをつくって、、
国民を「自働化」させたのだ。
その後、50年近く、日本という国、日本人という人達は、
天皇という名の下、近代国家として、あり得ないスピードで進化しまくった。

この山県という男、恐いくらいに、賢い~。

―――――――――

「真のサムライ・スピリットは、国防にも国威発揚にも深く寄与する」

西郷が信じていた、
「日本人の気質・気骨を国づくりに大いに活用する」
という、そのガバナンス・スタイルの本質を、
実務の天才といわれた山県がしっかりと継承し、
国家のガバナンス・システムに忠実にプログラミングした。

西郷は『サムライの魂』を、日本に残すことに成功した。
薩摩武士達は、或る意味で勝利した、といえなくもない・・・。

(了)

―――――――――
―――――――――

いやー、涙ナシには見られない内容でした・・・
あと、山県っていう人、マジすげー。

そうなんだよ、カネじゃねーんだよ。人間を動かすには。
山県っていう人、マジ尊敬~。賢すぎ。

ほんと、この番組、おもしれーなー! 

―――――――――

一応、ここから教訓を導いてみよう。

具体的には、明日以降。

以上






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Last updated  2005/07/05 01:27:33 AM
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