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一人の問題と、二人の問題を、ごっちゃにしてはならない。 ――――――――――― 二人でやっていくと、問題に数多くぶち当たるだろう。 二人の共通の問題は、二人で共有し、協力して解決すべきだ。 全てを共有し、役割分担し、互いの長所を生かし、短所を補い合い、やっていく。 二人の共通の敵がいたり、共通の課題があったり、 二人が共に責任を負う問題だったり、二人共が問題の原因である場合。 こういった場合は、難しいようで、実はとても簡単だ。 二人が明確にco-workしやすいから。 ――――――――――― むしろ難しいのは、一人が問題を抱えているときだろう。 よく、一人がスタックしたら、 運命共同体である二人ともが、連鎖的にスタックする、という事態をとらまえて、 「二人の問題」として共有し、 解決の場を二人に求めてしまうケースがありがちだ。 そして、その愛が深ければ、深いほど、 当事者である相手方からの要請に応じて、抱え込んでしまったりする。 しかし、それは錯覚だ。 本質的には、一人でいようが、二人でいようが、自分の問題は、自分だけの問題だ。 相手には、なんら、全く関係ない。 自分一人の問題は、自分一人で解決すべきだし、自分しか解決できない。 当事者しかわかり得ない問題を、二人で共有したところで、何も解決の役に立たない。 錯覚している限り、その問題は解決しないし、二人を危機に陥れるだけにすぎない。 ――――――――――― 相手が大切だから。 相手とやっていきたいから。 相手を助けたいから。 相手を楽にしてあげたいkら。 時々、当事者でない相手方は、その”情”から、 当事者しか解決不能なタスクの一部を負ってしまう。 しかし、当事者じゃないから、因果関係が不明確だから、絶対に解決できない。 また、潜在意識の下では「自分は当事者じゃない」と必ず、どこかで思っている。 その意識は、問題解決への絶対的意志推進力の醸成を阻害する。 そんな意志状態の人間が、物事を解決できる確率は低い。 一方、負わせた当事者側は、タスクを分散できたという精神的な安心感から、 問題解決への絶対的意志推進力に陰りを生んでしまうことだろう。 結果的に、 「誰も、解決する/できる人がいない」 「解決するまで、死んでもやる、という人がいない」 そんな状態に陥ってしまう。 ――――――――――― 錯覚して、二人の問題に落とし込んでしまったとき。 本来、単独で当事者だった人間は、どう考えるだろうか? 「お互いの協力で、解決できたね」 「お互いの力不足で、解決できなかったね」 という形で、結果の共有を行うだろう。 しかし、そのとき、当事者でなかった相手方は気づく。 その結果について、共有ではなく、強要されているような、いやな感覚を持つ。 そう、成功しても、失敗しても、いやな感覚に違いない。 だって、当事者じゃなかったのに、結果を受け入れなければならないのだから。 これは、恐らく、相手への小さな小さな不信感へと変わっていくだろう。 ――――――――――― 絶対に、一人の問題を、二人の問題として、持ち込んではならない。 絶対に、一人の問題を、二人の問題として、受け取ってはならない。 二人の破滅の第一歩にしかならない。 ――――――――――― 一人でいようが、二人でいようが、問題の多くは、自分だけの問題だ。 自分で解決するしかない。 二人の問題なのか、一人の問題なのか、必ず、絶対に、明快に分離できる。 よく考えれば、錯覚することはない。 ――――――――――― 問題を抱えている側は、状況を話し、共有し、相談して、意見を仰いでもよい。 ただ、冷たいようだが、でも、実質的には何もできないのだ。 解決するのは自分。 助けられるなら、助けたい。代われるなら、代わってあげたい。 でも、無理。それは、妄想。 ――――――――――― ただ、そばにいることはできる。 困り、疲れ果てているその理由が、何なのか、全くわからないし、 わかってもどうしようもないのだが、疲れ果てた相手をただいたわることはできる。 何も言ってあげられないし、何もしてあげられないけど。 解決できるまで一緒にいる。 それだけで、いいんだろう。 もし、一人で解決できないんなら、二人でやっても絶対にダメ。 ―――――――――――― では、どちらかの存在自体が原因となって、 相手の問題になっている場合、どうしたらいいだろうか? 自分を変えれば、曲げればいいのだろうか? 本当に、それが、幸せなんだろうか? 少し考えてみたい。 以上 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/12/23 02:39:11 AM
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