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カテゴリ:○歳の○だから
今日は、おばあちゃんと、お母さんのお墓に行った。 おばあちゃんの思い出。 どんどん、どんどん、ハンバーグとオレンジジュースが出てくる。 本当に嬉しそうに、どんどん運んでくる。 僕は、断ることなく、全てを食べ、元気にオカワリをした。 僕がオカワリすると、飛び上がって喜ぶから。 もうイラン、と言えなかった。 お母さんと、おばあちゃんが、よくケンカしてた。 「この子は、お腹が弱いんですから! 多すぎる!」 僕が食べると、おばあちゃんは喜ぶけど、お母さんは怒る。 僕は、どうしたらいいか迷ったけど、 おばあちゃんは、あまり会えない。 お母さんは、明日、また会えるやんか。と整理をつけていた。 妹は、もういらーん、とすぐにどっか行ってた。 お母さんに、「お兄ちゃんは食べすぎやと思う」と言いつけていた。 妹は、気楽でいいなあ、と本気で思ってた。 しかし、まあ、それでバランスとれるなら、いいかー、と思ってた。 ―――――――――― 『 他人 』 とは、何か? 自分と異なる存在。 自分と異なる意見。 自分と異なる「目的」。 自分と異なる「手段」。 これを受け入れることが、あるときから僕はできなくなった。 『他人』を許し、共生することを、僕はしなくなった。 小学校のときから、だと思う。 あのときのことは、すごくよく覚えてる。 今でも、夢に見てしまう。 ―――――――――― 1983年(9歳)の9月。 サッカーをやめた。 お医者さんに行かなくても、よくなったのに。 やめたのは自分の意志ではなかった。 お母さんが泣くからだった。 心配をかけるのは、よくないと思った。 やめると、お母さんが喜んだ。 ※いや、お母さんのせいにして、逃げただけかも。 でも、みんなに理由が説明できなかった。 自分でも、矛盾してる、と思ってたから。 僕はやりたいんだけど、やらない。 どういうこと・・・??? 帰り道の幅が、日に日に狭まっていった。 ランドセルが壁に擦れて、ガリガリ言ってた。 ドブの匂いが、鼻をついた。 足に、雑草が触れて、カサカサしてた。 壁と壁の間から、青空が見えていた。 自分は、なんで、こんなとこにいるんだろうか。 ここにいるのは、自分ではない。でも、自分だ。 自分で決めたから、この結果になってる。 でも、自分で決めたわけじゃない。 でも、この結果になってるのは、自分だ。 自分、とは、一体、なんなのか??? よくわからなくなった。 ―――――――――― 自分として、物事の結果を100%受け入れるには、 100%自分の納得感を持ちたい、 100%自分で責任を持ちたい、 100%自分でクオリティ・コントロールしたい、 100%自分で判断したい、 と考えるようになった。 『他人』という要素を、一切、入れたくなくなった。 自分のことなのに、『他人』のせいにしたくなかった。 「自分のこと」と認識してる物事について、 『他人』を信じて、出た結果を、そのまま受け入れる、 それができなくなった。 ―――――――――― なんで、そうなっちゃったのかな・・・? 「自分はできる」と証明したかった。 誰に? 自分に。いや、お母さんにかなあ? もういないけど。 いや、やっぱ自分に、だ。 自分を証明したかった。 「自分は、一人で、できる」ということ。 「自分は、自分のものである」という大前提。 「自分を、信じていい」ということ。 自分への信頼、自分への尊敬。 『他人』の要素が1ミリでも入ると、 それがプラスに転んでも、マイナスに転んでも、 成功しても、失敗しても、 それらの証明にならない、と思い込んでた。 そして、それは、 22年かかったけど、証明できたかもしれない。 だから、今の場所に来た。 証明材料がたくさん欲しくて。欲しくて。 ―――――――――― もう、一人でやることに、こだわる必要はなくなった。 第一に、なぜなら、自分が、そう言ってるから。 もう、わかったよ、と言ってるから。 自分を信じます、と言ってるから。 22年かかったけど。 第二に、一人でやることにこだわると、 これ以上、大きな、楽しいことができないから。 恐くても、『他人』という不確定要素を加えないと、もうできないから。 そんな風に思えている、2006年5月末。 ―――――――――― でも、恐い。 『他人』のせいにしたくない。後悔したくない。 でも、やらないといけない。ていうか、やりたい。 『他人』と仕事がしたい。『他人』と何か実現したい。 でも、クオリティ・コントロールもしたい。こだわりたい。 『他人』と、自分のこだわりは、共有できるか? 100%は無理だろう。だって、『自分』じゃないんだから。 ―――――――――― 過去に対する証明を済ませた今、 現在だけを見る考え方と、将来も見据えた考え方を比較した方がいい。 複数人で関与すれば、その複数人が経験を積む、ことになる。 一人でやったら、一人だ。 100%を得るには、次も、一人でやるしかない。 未来は、生まれない。 しかし、未来を取るために、現在のクオリティを下げていいのか? 矛盾しているのか? 両立できるのか? 現在のクオリティを下げず、未来への布石も打てるのか? ―――――――――― 実際に「やる」ために必要な心構えは、3つ考えられる。 (A) 自分が完全に信用する『他人』しか、交えない。 (=『自分』クオリティにこだわる/放棄しない) (B) もし『他人』を交えて、物事に対峙し、 仮にミスが生じても、その結果を、粛々と受け入れる。 (=『自分』クオリティにこだわらない/放棄する) (C) もし『他人』を交えて、物事に対峙し、仮にミスが生じても、 『自分』でリカバーする覚悟を持つ/リカバーする体制を敷く (=『自分』クオリティにこだわる/放棄しない。 但し、新体制に即した『自分』の存在が前提) ーーーーーーーーーーー (A)は「やらない」と同義。 やはり『他人』を受け入れない考え方に過ぎない。 変化してない。発展してない。即ち、滅びる。 それに、信用するといいながら、 自分で『他人』をコントロールする前提に立っている気がする。 『他人』はコントロールすることはできない。 『自分』ではないのだから。 (B)は本末転倒では? いや、しかし・・・、 100%ではなくても、80%ならOKとする、その考え方・価値観。 以前は、一切受け付けなかったが、今なら検討に値するかもしれない。 「物事の完成度と、そのための必要エネルギーの比例関係」 「完成度と、満足の比例関係」 が満たされるなら、であるが。 また、経験の蓄積は、きちんと活かせば、 今日の70%を、明日の71%に引き上げる材料となる。 その階段を一つずつ登るということだ。 そうだ、自分だって、最初から100%じゃなかったやんか。 この選択肢は、自分の「覚悟」と「割り切り」次第なんだ、と言える。 許すことが、できるか、という覚悟。『自分』と『他人』を。 (C)は、『他人』を少しだけ信用する、ということか・・・。 いや、信用してないけど、頼ってる。 少しだけ頼ってる、という感じだ。 『自分』と『他人』の境界線がわかりにくい。 結局、全部、『自分』のことと思っている、ということでは? 発展してないのでは・・・? もう少し、考えてみよう。 以上 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010/02/03 11:28:51 AM
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