|
カテゴリ:生き方・モラル
先日、エニアグラム仲間で同じType3のある女性と
Facebook内で意見交換をしていたのですが、 彼女は自分の性格、つまりType3であることが 素晴らしいとは思えないんだそうです。 『自己肯定感』がない、とも述べていました。 で、ふと気づいたことがありました。 彼女の文面からは、「我慢」とか「忍耐」とか 「努力」といったようなイメージが感じられるんです。 これらの言葉って、結局は自分の考え方や行動を律し、 片や美徳と言われそうな感じですが、 逆に言うと「自分らしく」あることを否定しているような 気がします。 とても窮屈なイメージ。 何だか一生懸命背伸びをして、乗り越えようとしている感じ。 ああ、辛いだろうなぁ、と思いました。 でもきっと「気持ちをラクにしてマイペースに生きる」という手段だと 「自分が埋もれてしまう」怖れを持ってしまうのでしょう。 そういえば僕も子どもの頃は『自己肯定感』どころか 『劣等感』のかたまりでした。 スポーツは基本ダメ、学業も小学校高学年になってくると だんだん分からないところが出てくる。 テストの点数がみるみるうちに落ちていきます。 「運動がダメならせめて学業で」と思っていたのに、 その学業も危なっかしくなってくると、 「自分の強みはなんだろう?」という疑問符の海に溺れていきます。 周囲のクラスメートの方が、圧倒的に能力が上に見えてしまう。 彼らは何をやらせてもそつなくこなしているが、 自分には絶対にそんな成果は出まい。 やってもみずに常にそういう結論を自分の中で出していました。 やりもしないから当然結果は出ず、 だからますます自信を無くして劣等感がさらに深まる。 そんな悪循環に陥っていたのです。 そして高校時代には周囲の人間の心理が全然読み取れずに愕然とし、 人間不信に陥ったこともありました。 いつの頃からでしょう。 たぶん社会人になってからだと思いますが、 周囲を含めて僕だけが理解できていて、しかも実践できる、 というようなことが、ポツリポツリと発現しました。 それまでは「みんなの方が優れている」と思っている自分があったのですが、 そういう事実が出てくると「あれ? 自分も捨てたもんじゃないぞ」 となってくる。 いつしかそれは「自分が他人より秀でているところがある」 という自信につながり、それが新たな行動を生む、という循環になり、 何となく一部分で自己肯定感のようなものが芽生えてきました。 その後、奈落の底に落ち込んでしまうこともありましたが、 しかし、Type3の達成欲にしたがって行動を選択し、 その中でコーチングと出会い、エニアグラムと出会い、 それらを学ぶことで、ようやく自己肯定感というものが 全面に立つようになってきた。 そうなってきたのは本当にここ10年足らずの間ですが、 しかし少年の頃の悲壮感がウソのように思えます。 冒頭のエニアグラム仲間の彼女も いつかは自己肯定感を取り戻す日が来るでしょう。 今はただ、その日が早く来ることを願うばかりです。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年08月09日 21時14分05秒
コメント(0) | コメントを書く
[生き方・モラル] カテゴリの最新記事
|
|