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カテゴリ:家族・家庭・交友関係
今日は言わずもがな、東日本大震災が発生した日です。
あの日の午後2時46分、 僕は都内の勤務先で部下との面談中でした。 最初はグラッとした揺れで、まぁいつものこと、 と部下と話をしながら「何も起きてない」かのごとく やり過ごしていたものの、 揺れはおさまるどころか、どんどんひどくなり、 建物の柱や梁がミシミシと音を立てだす始末。 間近には大通り同士の交差点があって、 昼夜わかたず車の往来が激しいのですが、 その瞬間は車の動きも止まり、 不気味なくらいな静けさの中で、 上下左右に身体がローリングし、 建物がきしむ音だけが耳に入ってきます。 これが僕の周囲で起きた3.11の最初のシーン。 念のために避難場所へ集合した際に、 スマホのワンセグを点けると、 まさに三陸沿岸に津波が到達している映像が流れていて、 まるで映画を見ているような感覚にとらわれたのを 覚えています。 都心部では建物被害がほとんどなく、 改めて地震に強い都市であることは証明されましたが、 交通機関がすべてストップし、 かつ安全確認が遅々として進まないため 運転再開の兆しが見られず、 まさかの『帰宅難民』が都内にあふれかえるところまでは想定外。 僕の場合は、意を決して徒歩帰宅を試みたところ、 運よく西武線が運転再開、 午前0時過ぎには帰宅できるということでラッキーでしたが、 福島原発事故に伴う計画停電のあおりを受け、 翌週からの電車の間引き運転には閉口したものです。 あれから4年、ですか。 被災地でも、復興が成ったもの、いっさい手付かずのままのもの、 さまざまですが、 それでも時間は動いていきます。 わが家のこの4年も、激動の4年でした。 震災のとき、津波で多くの人が命を失い、 「まだ生きたかったやろうに…可哀相に…」 と漏らしていたヨメさんが、その2年後にまさかの往生。 さらにその1年後の昨年末、父親もこの世から去りました。 いずれも、2011年3月11日時点では思いもしなかったこと。 都内にいて連絡のつかない僕の安否を 逆にヨメさんや父親が気遣っていたくらいでした。 こうやって、この4年間をつらつらと思い返していくと、 「事実は小説より奇なり」と言うと大げさですが、 人の死の浅はかさ、いや唐突さを、身をもって感じます。 4年前の震災では1万数千人の犠牲者が出ました。 「1万数千人」とまとめて言ってしまえばそれで終わりですが、 言うまでもなく、そこには1万数千通りの人生ドラマがあったわけです。 その1つひとつのドラマに対して 関係する人たち1人ひとりの慟哭が刻み込まれたということです。 だからこそ、この日を忘れてはならない。 身近な肉親を失った者として、今は強くそう思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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