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僕は「内田樹」さんの書かれる本が大好きで、 本屋で見かけるたびに迷わずお買い上げしちゃうヘビーリーダーなのですが、 僕らの目の前で起きているものごとを解き明かすために、 「そもそも」の部分をちゃんと、手を抜かずに掘り起こしてくれる、 いわば、読み手の「わかった!」の部分にまで責任を持ってくれるというか、 「伝えたいことを伝える」において相手の「もの分かりのよさ」に甘えない姿勢というのが、 素晴らしいなあといつも思います。 そして昨日まで「街場のメディア論」を読んでいたわけですが、 その中で「贈与」の成り立ちについて書かれていた部分に「はは~ん」ときてしまったので、 ちょっと紹介させてください。 「贈与」というのは「贈る人」と「贈られる人」がいて初めて成立するのですが、 その順序というのは「贈る人」→「贈られる人」という風に発生しているのではなく、 「贈られた人」が出現してはじめて「贈った人」が「贈る人」となり、 「贈与」の関係が成立するというのです。 というのは、そもそも「贈与」というのは、相手方にとって「価値の分からないもの」を 贈るという行為であって、その「よく分からないけど贈られたもの」に対して、 「これはすごいものかもしれない」と価値を感じた人が出現したときにはじめて、 その「贈られたもの」は「贈り物」になるんですって。 (この辺の道筋はかなり省略しちゃってるので、詳しくは原書をぜひ!) つまり、「贈り物」の価値は受け取る人が「ありがとう」と言った瞬間に発生するのであって、 「贈り手」が「これあげるよ」と言ったときに発生しているものではないんですねー。 そもそもの起源をたどれば。 僕はこれを「仕事」と関連付けたのですが、 仕事じゃなくてもいい、2人以上の人が共同でやる行為のかなりの部分が、 この「贈与の成り立ち」論から分かるんじゃないかと思ったのです。 つまり、なぜ「ありがとう」が必要なのか、ということです。 「仕事」=「贈り物」という等式を、僕は考えました。 それは、あらゆる「仕事」というのがみんな「必要とされること」があって はじめて存在できるものだと思うからです。 「仕事」の価値は「必要としている人」がいてはじめて発生する。 いくら「ねえねえ、いいもの作ったんだよ」と言っても、みんなが「そんなの、いらないよ」と言えば、 その「仕事」は対価が発生しないわけです。 そして、これは「仕事」の周りにあるあらゆる行為にきっと適用できて、 たとえばコピーをとってあげるとか、資料を揃えてあげるとか、そういうことも、 「してあげる人」と「してもらう人」があって仕事になる。 言葉からして、「してあげる」「してもらう」「させていただく」「やってください」などなど、 みんな「あげる」とか「もらう」が入ってるんですよね。 あらゆる仕事はきっと贈与の関係を持っている。 これが僕が考えたことです。 そして、贈与に価値を発生させるのは「贈られた側」である。 だから、「ありがとう」が大事なんです。 「ありがとう」がなければ、その仕事に価値がないってことに、なっちゃうんですもん。 「贈られる側」、責任重大だな~。 うっかり「ありがとう」を忘れることは、実は大きな意味をもっちゃうわけだ。 でもでも、「贈る側」にだって自立が必要で。 「ありがとう」はいつでも「ありがとう」のかたちをしているとは、限らないものだから。 いろんな姿の「ありがとう」をキャッチできる心を、磨いていかなきゃ。 世界が素晴らしい場所になれる可能性を、ちょっとだけ夢見ることができた朝です。 本当に久しぶりに持てた、うれしい感覚。 大事に大事に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年08月29日 10時11分01秒
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